高台寺 月真院 |
伊東甲子太郎一派の離脱
慶応3年(1867年)伊東甲子太郎は新選組を尊王攘夷の組織とするべく動いていたが、近藤勇はじめ幕府よりの隊士が多く、伊東は新選組の尊王攘夷への転換はあきらめ、隊を脱することを決める。しかし新選組において脱退は死を意味する。そこで伊東は一計を案じる。
自分たちは薩長に取り入り間者として動く。そのためには新選組にいるのはまずい。表面上自分たちを脱退させてくれ、と申し出た。また伊東は東山戒光寺の湛然(たんねん)という勤王の僧侶と共に、亡くなった孝明天皇の陵墓をまもる御陵衛士という仕事を作り出し、新選組から離れても経済的に困らないように仕組んでいた。
近藤も隊の規則上脱退を許すことはできないが、組内にとどめておいても害にしかならないと判断し、伊東一派の脱退を許可する。その代わり斎藤一を潜り込ませた。
3月20日西本願寺を出たメンバーは伊東甲子太郎の弟・三木三郎、斎藤一、藤堂平助、篠原泰之進、服部武雄、毛内有之助、阿部十郎、加納鷲雄、内海次郎、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、富山弥兵衛
3月21日五条の善立寺に仮の屯所としたあと、高台寺の塔頭「月真院」に屯所を移した。
高台寺月真院とは
臨済宗建仁寺派。本尊は千体地蔵菩薩。
1615年、石見(いわみ)国・津和野の城主・亀井茲政が、亡父・政矩(まさのり)の菩提を弔うために、三江紹益を開山として創建した。
1616年、亀井豊前守の保護の下、豊臣秀吉の外戚・北政所の従弟にあたる久林玄昌(きゅうりん-げんしょう)により開創されたともいう。亀井家の菩提寺になる。
1867年、6月8日 御陵衛士(高台寺党)の屯所となる。
1867年、6月12日、新撰組隊士で尊攘派の茨木司ら10人が、月真院の伊東に合流を求めたが拒否される。
同年 6月14日、茨木らは新撰組により粛清される。
同年 8月18日、中岡慎太郎が寺を訪ねる。
同年 11月10日、斉藤一が伊東一派から離脱。伊東一派による近藤の暗殺計画をしり知らせに戻ったとみられている。この時金を盗むなど偽造工作をしている。
同年 11月18日、油小路事件勃発。伊東甲子太郎脂肪により御陵衛士は解体
門前には御陵衛士屯所跡の碑と説明文が設置されている。
【アクセス】
所在地:〒605-0825 京都府京都市東山区 下河原町528
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