池田屋事件当日の新選組の動きを追う|池田屋騒動ゆかりの地|京都府祇園

京都三条池田屋事件跡地
池田屋事件跡地

新選組ファン必見の池田屋事件跡地。

ただ行くだけではつまらない。

新選組になったつもりで池田屋へ至るまでの当時のルートを歩いてみよう!

池田屋事件とは:新選組は、八一八事件で京都を追われた長州が京都で復権を画策していること、そのために京都市中に火を放ち混乱に乗じて中川宮と松平容保を殺害、天皇を長州へ拉致するという計画があるという情報を得る。さらに元治元年六月五日(1864年7月8日)薪炭商を営む枡屋喜左衛門(古高俊太郎)を捕縛した際に地下蔵に大量の武器を発見する。当日の夜、この計画を阻止するために市中の一斉捜索を開始。池田屋にて不逞浪士たちと抗戦した事件である。

当日の時系列

元治元年六月五日(1864年7月8日)

6:50ごろ古高俊太郎捕縛 同じころ 新選組が黒谷の会津本陣へ訪れ不審者探索のための協力を要請する

12:00 ばらばらと新選組出動

19:30 祇園町会所へ集合

20:45 「越房」(所在不明)に御用改めに訪れる

21:15 「井筒」捜査

21:30 桂小五郎、池田屋へ立ち寄るが対馬藩の別邸へ行く

22:00~23:00ごろ 「池田屋」捜査開始

24:00 土方歳三池田屋合流

会津、桑名藩も合流して残党刈りを夜通し行う

六月六日 昼頃 新選組帰陣

新選組探索ルート

※土方班はもう1ルートあるが現在の地図では表せなかったので割愛

当日のルートとゆかりの地

祇園町会所


祇園町会所跡
祇園町会所

所在地:〒605-0074 京都府京都市東山区祇園町南側551 漢字博物館の辺り


昼頃隊士たちは市中見回りを装い3~5人ほどのグループに分かれてばらばらと屯所を出る。服装は普段着だが下には竹胴を身に着けていたことが目撃されている。集合時間までだいぶ時間があるため、会所に行くのが目的ではなく探索も兼ねていたに違いない。

19:30 ばらばらと出かけた隊士たちが祇園町会所へ集合した。

当時新選組は40人ほどの隊士がいたが全員が屯所を留守にしてしまうと古高を奪還しに屯所が襲われるかもしれなかったため、会所に集合したのは34名ほどだった。

留守居組には総長の山南敬助も含まれた。

古高の件を連絡した会津からは21:00から捜査開始といわれていたが、新選組は隊士がそろい次第動いた。

近藤を中心とする班、11名は先斗町へ、土方班23名は祇園方面へと探索を進めることとした。

近藤班の人数については諸説あり、狭い祇園を長時間かけて回っていた為、土方班との連絡係などで途中で隊員が入れ替わっていたのかもしれない。

20:45「四条通りにある茶屋越房」(所在不明)に捜査に入る。場所は不明。

井筒屋

所在地:〒605-0073 京都府京都市東山区祇園町北側238
東山警察署大和大路交番周辺

21:15 四条通りにある茶屋「井筒屋」に捜査に入る。

会所から井筒屋まで500mと離れていない。

徒歩7分程度の距離だが、会所を出てから1時間半は経過をしている。

通りの旅籠・茶屋をしらみつぶしにあたっていたのだろう。

事実、永倉新八の話にも「古高の自白通り長州人を狩りたてようと手を分け片端から調べて行く」とある。

四条大橋

八坂神社から四条通りを調べつくした近藤班は橋を渡って先斗町通りへ入る。

先斗町へ入る

先斗町
祇園通りから三条通りと進んでいったが一人も見当たらない(永倉新八)

23:00「池田屋」捜査開始

 ふと三条小橋の辺りの池田屋惣兵衛方を覗くと、はたして二十余人の長州志士が寄り合って何事か凝議の最中であることが分かった。~略~此方は近藤勇、隊員を二手に分かち、池田屋の表口と裏口を固めさせ、屋内へは隊長近藤が親(みずか)ら、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の三人を随えてツカツカと進む。

 行燈の陰に透かせば軒下に鉄砲と槍が十挺ばかり立て掛けてある。それとみた沖田は手早く縄をもって引っ搦げる(新選組奮戦記)

表口は武田観柳斎、谷万太郎(三十郎)、浅野薫

裏口は安藤早太郎、奥沢栄助、(新田革左衛門) 

中は近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助 江戸試衛館よりの同志たちで踏み込んだ。

近藤、沖田は2階。永倉、藤堂は1階で浪士たちと戦った。

永倉いわく沖田は肺病でたおれ(この時はまだ結核にはかかっておらず熱中症だったのではないかという説が有力)、藤堂はおでこを負傷、永倉自身も親指の付け根を斬られ、刀は折れ浪士の落とした刀で戦うという絶体絶命の状況であった。


24:00 土方歳三班、池田屋合流

土方班が到着したことで戦況は変わる。切り捨て御免から捕縛へと移行。諸藩の兵士も駆けつけ残党刈りで約20名ほどの浪士を捕縛したという。

池田屋内で死んだ浪士側は諸説あるが、宮部鼎蔵、大高又次郎、石川潤次郎、広岡浪秀、福岡祐次郎の五人というのが有力。

吉田稔麿は逃げ出すことに成功したが長州藩に報告した後武器をもって現場に引き返す。
道中会津藩兵に見つかり交戦・討ち死にした。
望月亀弥太も脱出に成功。
長州藩邸に向かうものの門が閉ざされ中に入れず、河原通りを北へ逃走。
重傷を負っていた為力尽き、門倉屋敷周辺で自刃した。
松田重助も池田屋で重傷を負い捕縛され獄中で死亡。

杉山松助は池田屋にはいなかったが長州藩邸で事件を知り現場へと向かう。途中会津藩兵に出くわし交戦、後に死亡。

以下は池田屋とは関係なかったがとばっちりで死んだ浪士達。

吉岡昭介 (長州)、野老山五吉郎藤沢八郎、北添佶摩(土佐藩。子母澤寛の創作中の階段落ちで有名だが、当日、大仏下河原町の自宅で新選組の御用改めを受ける。一度逃亡するも市中のどこかで討たれたと思われる。)

翌日朝方 新選組、屯所へ帰宅



参考文献


新選組始末記―新選組三部作 (中公文庫) 文庫 – 1996/12/18

子母沢 寛 (著)

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