沖田総司が最期を迎えた場所は諸説ある。浅草の今戸神社とこの新宿にあったとされる植木屋平五郎宅である。
沖田総司逝去の地
沖田総司逝去の地 |
新宿区・新宿御苑に隣接するアパートの隣に「伝・沖田総司逝去の地」はある。慶応四年鳥羽伏見で敗戦し江戸へ戻ってきた新選組一行。近藤は病気の沖田を幕府の医師で新選組と親交のあった松本良順に預ける。この松本が仮宅としていたのが浅草今戸神社の敷地であったことから今戸神社には「沖田総司逝去の地」という看板が掲げてある。
また永倉新八の「同志連名記」に「白川脱藩 沖田総司 江戸浅草今戸八幡松本良順先生宿にて病死」とある。
しかし子母沢寛が聞き取りした近藤勇五郎の話では「郊外千駄ヶ谷の或る植木屋のはなれ」とあり、明治21年に吉野泰三が記した「近藤勇五郎に質し之を記す」のなかに「沖田総司は近藤勇の門人。明治元年辰年三十日東京千駄ヶ谷に於て病死」と記されていたことで千駄ヶ谷説は濃厚になった。
沖田総司逝去の地の看板 |
慶応四年二月ごろ千駄ヶ谷池尻端の植木屋平五郎の離れを借り受け沖田を移したとされている。
沖田がなくなる前月四月二十五日、近藤勇が板橋で処刑される。しかし病身にさわるという理由で近藤の死は沖田には伝えられなかった。沖田がなくなった五月三十日、新選組の面々は会津にて白河口攻防戦の真っただ中だった。流山で本隊と離れた土方歳三も宇都宮から会津へ向かっていた最中だと思われる。このため沖田総司の死は新選組の組員には知らせるすべはなかったと思われる。
沖田総司と黒猫
数々の創作において沖田と一緒に黒猫を目にする。元ネタは子母沢寛の逸話にある。
沖田の最期を世話した老婆の聞き取り話として「五月二十八日、沖田が静養していた家の庭に黒猫がいた。沖田は刀をとって庭に出て黒猫を切ろうとしたがもはや刀を振るう体力なく、切ることができない。翌日、同じ場所に同じ黒猫がいた。沖田は再び刀をとって切ろうとするが、やはり切れない。
「ばあさん斬れない。斬れないよ。」
そういい沖田は倒れ三十日に息を引き取った。
(子母沢寛・新選組物語)
この話からファンの間で沖田といえば黒猫というイメージが定着しイラストなどで一緒に描かれるようになったと思われるが、沖田と黒猫は決して仲の良い間柄ではなく、むしろ沖田は黒猫を殺そうとしていた。
慶応四年五月三十日(西暦1868年 7月 19日)
新選組副長助勤・一番隊組長 沖田総司 逝去
戒名「賢光院仁誉明道居士」
享年25歳 または 27歳いずれにせよ早すぎる人生であった。
沖田の墓所は東京都港区の専称寺にある。
沖田総司の眠る専称寺
沖田総司の墓は港区六本木にある専称寺にある。普段は立ち入り禁止。年に1回行われる沖田総司忌のときのみ墓前に参ることができる。
所在地:〒106-0046 東京都港区元麻布3-1-37
沖田総司逝去の地所在地
〒160-0014 東京都新宿区内藤町
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