大善寺・柏尾坂古戦場~甲州勝沼の戦い~|山梨県甲府

真言宗智山派通称「 ぶどう寺」 柏尾山・大善寺。

この大善寺の山門に近藤勇の率いる甲陽鎮部隊が陣を置いた。

甲陽鎮部隊と新政府軍の戦いは、甲州勝沼戦争、別名「甲州勝沼の戦い」、「柏尾の戦い」、「勝沼・柏尾の戦い」、「甲州戦争」、「甲州柏尾戦争」とも呼ばれる。

大善寺の山門
大善寺の山門

新選組改め甲陽鎮部隊

慶応四年、鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は江戸を制圧すべく東海道・中山道・北陸道を進軍。

中山道をすすむ軍は分隊を甲州街道へと進めた。

陸軍総裁・勝海舟は新選組に江戸進軍を甲州で阻止することを命ずる。

都市伝説の域を出ないが、鳥羽伏見の敗走兵たちが江戸でくすぶっていては新政府軍との交渉に邪魔なため体よく江戸から追い出したという説もある。

 永倉新八によれば甲州出兵は勝からの命令ではなく、近藤が慶喜に出願、受け入れられたとある。(浪士文久報国記事)

甲州勝沼戦争
大善寺にある柏尾坂の戦いの説明

慶応四年二月十二日幕府から300両受け取る

出兵準備金と思われる。

二月二十七日「大石鍬次郎甲州行」として10両を振り出している。

甲州への先発隊(偵察)と思われる。

同日・239両をさらに追加で幕府軍から受け取る

また、近藤勇は大久保剛。土方歳三はいつかは不明だが内藤隼人と改名する。

二月二十八日隊士たちに甲州行が公表され1名10両または5両づつは配布される。

沖田総司に10両とあるからここまでの時点では総司はまだ新選組と行動を共にしていたと思われる。(金銀出入帳)

江戸から甲州へ

二月三十日 甲陽鎮部隊として江戸を出発。

大久保剛こと近藤勇は大名籠にのり組長達は陣笠・陣羽織。しかし内藤隼人こと土方歳三は断髪・洋装の体であった。

鍛治屋橋を出発した甲陽鎮部隊は1日め内藤新宿で宿をとる。

鍛治屋橋は現在の東京都中央区八重洲で内藤新宿は新宿1丁目周辺である。

距離にして7kmは現代人でも2時間もあれば歩ける距離である。

新政府軍が迫っているというのにだいぶのんびりとした行程だといわざるを得ない。

一行は内藤新宿で遊女屋を借り上げ宴会を開く。

戦前の英気を養ったというところか。

三月二日 日野佐藤彦五郎宅へ至る

このとき日野の若者たちが従軍を申し出たため佐藤彦五郎は若者21人とともに同行する。

彼らの隊を春日隊という。このとき沖田総司は四股をふみ「池田屋で斬りまくったときはかなり疲れましたがまだまだこの通りです」とアピールした。(聞き書き新選組)

しかし進軍するにつれやはり病状が思わしくなく甲州へは行かず千駄ヶ谷へ移ったとされています。

三月三日 甲陽鎮部隊が甲州に入る

新政府軍が進軍してきているにも関わらずずいぶんゆったりとした行軍であった。

戦闘員を集めていたためとも近藤・土方の出身地なので行く先々で歓迎の宴があったため遅れたともいわれているがおそらくどちらもだろう。

三月四日 駒飼宿へ到着

甲州城から21kmの位置である。

一方の新政府軍も同じ日に甲州に入っている。

先遣隊として先に甲州へ来ていた大石鍬次郎が中村半兵衛とともに駒飼宿にくる。

おそらく新政府軍の甲州入りを報告しに来たのだろう。

大石の報告を聞いた土方は援軍養成のため江戸へと戻る。

三月五日 新政府軍が甲州城を開城

近藤は勝沼へ兵を進めようとするが、新政府軍が先に城を抑えたことに不安を覚えた戦闘員たちから援軍がなければ戦えないという声が上がる。

もとより寄せ集めの隊。結束力や戦闘意欲は高くない。そこで近藤は会津藩の援軍がすぐ近くまで来ていると嘘をついてようやく隊を動かす。

このとき脱走兵がかなり出たらしい。

三月六日 江戸へ援軍を頼みに行った歳三は佐藤彦五郎宅へ寄って洋装を羽織袴に着替え馬から籠へ乗り換えたという。さすがのバラガキも幕府のお偉方と会うにはTPOを考えたようだ。

援軍を求めた土方はまだ江戸にすら到着していなかったが近藤は進軍する。

陣を構えたのが大善寺の山門から観音坂だった。

当初は大善寺に本陣を置く予定だったが大善寺には徳川家縁の寺宝があるという理由から諦め、大善寺の西側に先頭、山門前及び、東側の白山平にいたるまで細長く配置。

最大300名いた隊士は次々と脱走し、このときわずか121名だった。

勝沼・柏尾の戦い、甲州戦争、甲州柏尾戦争

三月六日 正午ごろ甲州街道上で開戦

新政府軍の大将は板垣退助。

当初は風向きのおかげで甲陽鎮部隊が有利だったが、風向きが変わり新政府軍有利となる。

決着がついたのは午後2時頃だというのでわずか2時間の戦であった。

吉野宿まで引いた近藤は永倉新八・原田左之助・斎藤一を中心に迎撃隊を組織しようとしたが、隊士たちが近藤の所へは集まってこない。

近藤が援軍がすぐくると嘘をついていたことに立腹して退散していたのだ。

永倉と原田が馬で追いかけたが散り散りになった彼らはすでに八王子まで戻ってしまっており迎撃する気はない。

そこで永倉と原田は吉野宿での迎撃をあきらめるように近藤に知らせを送った。

八王子から小グループに分かれて江戸へ戻った。

戦場となった柏尾坂
戦場となった柏尾坂

甲州勝沼戦争での新選組の死者:加賀爪勝之進、上原栄作、池田七三郎

現地には近藤勇の銅像と柏尾古戦場の碑、および戦争についての説明板が設置され在りし日の戦いの様子を現在に伝えている。

近藤勇の像
 

なお大善寺は新選組史跡のほか国宝のブドウ観音もありドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」第四話のロケ地ともなった場所である。

大善寺所在地

〒409-1316 山梨県甲州市勝沼町勝沼3559

柏尾古戦場所在地

〒409-1316 山梨県甲州市勝沼町勝沼

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