伊東甲子太郎・藤堂平助最期の地~本光寺~|京都府京都市


    油小路の変
    本光寺
    慶応3年11月18日(1867年12月13日)油小路の変勃発。

    伊東甲子太郎外数名殉難之跡

    寺前の表札

    ざっくり油小路の変とは

油小路の変(あぶらこうじのへん)、油小路事件(あぶらこうじじけん)と呼ばれる。

慶応3年3月10日(1867年4月14日)伊東甲子太郎と近藤勇の政治的思想はいよいよ決定的なものとなり、伊東かしたろうを含む13名が新選組を離脱した。表向きの離脱理由は、孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、それに伴い薩摩藩や長州藩の動向を探るという事であった。五条橋東詰の長円寺(善立寺説もあり)に屯所を構え「御陵衛士(ごりょうえじ)」を名乗る。

その後、間者(かんじゃ・スパイの事)として御陵衛士に加入していた斎藤一から、伊東甲子太郎が、勤王倒幕運動に勤しみ薩摩藩と通謀して近藤勇を暗殺しようとしている、という情報がもたらされる。

※近藤暗殺計画については諸説あり

慶応3年11月18日(1867年12月13日)近藤勇はかねてから伊東から依頼されていた資金の準備ができた、また国事について語り合うと誘い、七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を行った。

ほろ酔い帰路についた伊東が七条油小路の本光寺に差し掛かったところ、待ち伏せていた大石鍬次郎が槍でついた。一突きでは絶命しなかった伊東は抜刀。刺客に人たち浴びせ「奸賊ばら」と叫び絶命した。

奸賊ばら(かんぞくばら)・・・心がねじけて邪悪な人。にくむべき悪人。ばらは複数形と思われる「このくそ悪党どもが!」くらいの意味だったと思われる。

伊東を襲った新選組は伊東の死体をそのまま放置した。

このあたりで乱戦が展開された

伊東討ち死にの知らせをうけた御陵衛士たちは伊東の死体をそのままさらしておくわけにはいかない派と新選組の罠だという派に分かれた。

御陵衛士達の懸念通り、伊東の死体の周囲には武装した新選組40~50名が潜んでいた。

結局そのままにはしておけぬということで引き取りに向かうことにしたが、戦闘を予想して鎖帷子を着込んだり戦闘の準備をしていると篠原泰之進が討ち死にした時にみっともないので武装するのはやめようといったので、皆平装でむかった。

藤堂平助・篠原泰之進・鈴木三樹三郎・服部武雄・毛内有之助・加納道之助・富山弥兵衛の7名は籠屋とともに油小路へ着け、伊東の遺体を籠へ押し込んだ。

その時、武装した新選組に周囲を囲まれた。この時出動していた隊士は原田左之助、永倉新八、島田魁、大石鍬次郎、横倉甚五郎などと思われる。

永倉新八は近藤勇から「できれば藤堂平助は生かしておきたい」といわれていたので、藤堂平助と斬りあうふりをして、逃げられるようにすっと道を開けた。

永倉の思いに気づいた藤堂は逃走するものの事情を知らない三浦常三郎に背後から斬られ絶命してしまう。

油小路の変では藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の3名が討死した。

伊東を含めた4名の遺体は2日間放置されたのち新選組によって引き取られていった。

伊東甲子太郎の墓

幕末史跡めぐり小話

今でこそ油小路は細道でなぜ伊東は夜中にこんなところを通ったのかと不思議に思ってしまうが、昔は大通りであり、市が出てにぎわっていたそう。

そんな「油小路」には「油屋」がある。

その名も「西川油店」

創業は天保六年(1835年)と200年近くも歴史のある老舗。

油小路の変の時にも実在していたのでリアタイで見ているはずだ。

本光寺へお参りに行った後は幕末も変わらずある西川油店でお土産のごま油などを買うのも一興。

本光寺基本情報

所在地:京都府京都市下京区油小路通木津屋橋上ル油小路281

TEL:075-341-2863

開門時間:

平日 13:00~16:30

日祝 10:00~12:00、13:00~16:30 で朱印受付

※一時期閉鎖されていたが現在は公開されている。中に入ると伊東甲子太郎の墓がある。

アクセス:

京都駅中央口(烏丸口)から塩小路油小路通を北へ徒歩7分


新選組関連史跡を地図から探す>>

コメント