寛永寺本堂 |
寛永寺とは
寛永寺は正式名称東叡山・寛永寺といい天台宗の別格大本山の寺である。
寛永2(1625)年に、江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸を強固な都市として作り変える一大都市計画を実行する。その一環として江戸の鬼門にあたる上野に比叡山延暦寺と同等の意味をもつ東叡山・寛永寺を建立した。実際に建立の指揮をとったのは慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正である。天海は徳川家康に仕え日光東照宮の建立にもかかわったとされている。一説には生き延びた明智光秀はないかとされている。
後に第四代将軍・德川家綱の霊廟がおかれ、将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。現在寛永寺の徳川家ご霊廟には
犬公方こと五代・義綱
暴れん坊将軍こと八代・吉宗
大河ドラマ「篤姫」で一躍有名になった十三代・家定
篤姫こと十三代正室・天璋院
の墓があり不定期で公開している。
徳川家を象徴する寺であり、当時は日本一の権勢を誇っていたと思われるが、上野戦争によって新政府軍に敷地は没収され、現在は大部分が上野公園となっている。
寛永寺では毎年5月15日に彰義隊の供養を行っている。
寛永寺と徳川慶喜
徳川慶喜は第十五代将軍。
水戸藩(現茨城県水戸市)にうまれた。父は斉昭でのちに烈公とよばれた猛烈な尊王攘夷の推進派である。
慶応2年(1866年)十五代将軍に就任した慶喜は翌年の慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還を行う。徳川家を中心とした大名連合で天皇家を盛り立てていく体制となるはずであった。
しかし「徳川家中心」に納得しない諸藩により慶応3年(1867年)戊辰戦争が勃発。
新選組も伏見奉行所に陣を置き奮戦する。
鳥羽伏見で敗れた新選組ふくむ旧幕府軍は慶喜のいる大阪で再集結し、体制を整えて再戦を試みる。
しかし朝敵とみなされたことにショックを受けたのか慶喜側近たちととも開陽丸で大阪から江戸へと脱出してしまう。※1
のこされた幕府軍は総大将不在のまま大阪で戦うこともかなわず、新選組も順次江戸へと引き上げる。
長州・薩摩は朝廷から、正式な慶喜追討令を勝ち取り江戸へと進軍を開始する。慶喜は朝廷に敵意のないこと、恭順の意を示すために、勝海舟のすすめもあって寛永寺にて謹慎をする。
4月、江戸の無血開城がおこなわれるも、徹底抗戦を主張する勢力が暴発する恐れがあったため、慶喜は寛永寺から水戸へと帰り弘道館至善堂で謹慎をする。
寛永寺と上野戦争
しかし、慶喜が水戸へ戻ったのち一橋家家臣の渋沢成一郎※2、天野八郎らは彰義隊を結成。本願寺に陣をおくが、後に上野の寛永寺に移す。
無血開城はしたものの薩摩・長州のやり方に不満を持っていた旧幕府軍の家臣たちはぞくぞくと寛永寺に集まってくる。寛永寺は徳川家の象徴だったのだ。新選組原田左之助もこの上野戦争に参加している。
5月14日(7月3日)寛永寺に集まった旧幕府軍の残党の討伐が正式に決まり翌日の5月15日(7月4日)、上野戦争が始まる。新政府軍の指揮官は大村益次郎。西郷隆盛も参戦していた。戦闘は団子坂や黒門付近で行われた。当日の夕方午後5時には彰義隊はほぼ全滅。上野戦争は終結した。
当時はおそらく日本一の権勢を誇った寛永寺はその後敷地を新政府軍に没収、現在は上野公園となっている。
寛永寺の見どころ
上野戦争の銃創がのこる門
寛永寺の門には上野戦争時の銃創が残っている。寛永寺根本中堂跡
上野公園の中にある寛永寺中道跡。上野戦争で寛永寺の塔頭はほとんど焼けた。上野戦争の錦絵
寛永寺には戦争の悲惨さを後世に伝えるために上野戦争の錦絵がある【アクセス】
所在地:〒110-0002 東京都台東区上野桜木1丁目14番11号
開門時間・閉門時間 : 午前9時〜午後5時
JR上野駅徒歩10分
※1 大阪敗走の理由は諸説あるがのちに慶喜本人がかたったことから推測するに、天皇家から朝敵とみなされたためだったと思われる。父・斉昭は猛烈な尊王思想の光主だったため慶喜も天皇家絶対の思想だったのかもしれない。
※2 渋沢成一郎は渋沢栄一の従妹
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