永倉新八らが建てた新選組供養塔
寿徳寺境外墓地に立つ新選組隊士供養塔 |
近藤勇斬首される
慶応4年4月25日(1868年5月17日)
千葉県流山で新政府軍に出頭した新選組局長・近藤勇は板橋の平尾宿にあった一里塚で斬首された。首は京都三条河原にさらされ、胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬された。
翌々日の4月27日、近藤勇の一人娘たまの婿であり勇の甥でもあった近藤勇五郎や勇の兄・宮川音五郎、天然理心流の門徒らで夜中に埋められた勇の死体を掘り起こす。首は京都に送られていた為見つからなかったが、胴体を掘り起こし夜中に板橋から三鷹まで運び、龍源寺へ埋葬したと言われている。
その後、明治9年に永倉新八や松本良順らにより、近藤勇と土方歳三の供養碑が板橋に建てられ、のちに、近藤勇の胴体は板橋へ改葬されたとのこと。土方歳三始め戦死した新選組の隊士の多くが遺体のない墓で弔われているなか、本物の近藤勇の体が眠っている。
永倉新八、新選組の朝敵の汚名を返上するため奔走す
明治7年8月
明治政府が『戊辰戦争の際、逆賊の汚名を着せられ戦死した者の祭祀を許す。』という官報を公布。当時北海道に住んでいた永倉新八は上京し、近藤が埋められたこの滝野川での慰霊碑建立を試みる
徳川幕府時代から新選組親交があり、当時、大日本帝国陸軍初代軍医総監の地位にいた松本良順の協力を得て明治9年に供養塔を建立。
新選組の祭祀を目的とする最初の供養塔として学術的にも貴重である。
菩提寺である寿徳寺と「近藤勇と新選組隊士の墓保存会」は、近藤勇の命日にあたる4月25日またはその直前の日曜日に墓前供養祭を行い、4月29日には、地元の商店街等が滝野川新選組まつりを行っている。
「近藤勇と新選組隊士供養塔」北区指定有形文化財・歴史資料)
見どころ
新選組供養塔
新撰組供養塔 |
面には110名の新選組に関わった人々の名が刻まれている。発起人に「永倉新八」の名もある。
近藤勇・土方歳三の墓
近藤勇・土方歳三の墓 |
近藤勇宜昌・土方歳三義臣の文字。局長と副長仲良く並んで文字が刻まれている。龍源寺に埋葬されていた近藤の胴体を、改葬したとの記録も残っている。
永倉新八の墓
永倉新八の墓 |
大正4年(1915年)1月5日、永倉新八は虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発し、小樽にて死去。享年77。墓所は小樽市中央墓地と札幌市里塚霊園、そしてここ東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地(字は蜂須賀正韶侯爵)の3箇所。
処刑された当時の墓石
近藤勇が処刑された当時の墓石 |
斬首された当時、近藤の胴体が埋葬された際に於かれたという墓石。当時は無縁墓地に投げ込まれた形だったため、近藤のために置かれたというよりはこの地に埋葬された人々をまとめて供養するのに置かれたと思われる。貴重な当時からの名残である。
近藤勇の像
近藤勇像 |
【アクセス】
所在地:東京都北区滝野川7-8-10 寿徳寺境外墓地
JR板橋駅東口から徒歩5分
※管理者は寿徳寺
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