原田左之助上野にて散る
鳥羽・伏見の戦、甲州勝沼の戦いで敗れた江戸にもどってきた新選組は今後のことを話し合う。そこで永倉と原田は近藤と袂を分かち新選組から離れる。永倉・原田は永倉の旧友芳賀宜道(はがぎどう)と再会し靖共隊(せいきょうたい)を組織する。隊長に芳賀、復調に永倉、原田をおいた。すると新選組の林信太郎、中条常八郎、松本喜三郎があつまり、諸般の脱走者、旗本などおよそ50名が集まった。
慶応四年四月十日(1868年5月2日)江戸城の無血開城が決まると徹底抗戦派は会津へと集まっていく。靖共隊も会津へ向かうべく水戸街道をはしるが、山崎宿で原田が、永倉曰く
「妻子の愛着に惹かれ、辞(ことば)を設けて江戸へ引き返し、官軍は江戸を囲んで再び靖共隊に変えることができず。神保伯耆守(じんぼほうきのかみの募った彰義隊に投じて。上野戦争に戦死を遂げた。」(新選組奮戦記)
原田左之助は京都にいる妻子のことが思い出され、戦線を離脱し京都へ行こうと考えたが、江戸はすでに官軍に包囲されていた。京都に行くことも靖共隊に戻ることもできなくなった原田は、江戸で徹底抗戦を決めていた彰義隊に加入をした。
慶応四年五月十五日(1868年7月4日)上野戦争が始まる。原田は銃弾を浴び神保山城守邸へ運ばれたが傷がもとで慶応四年五月十七日(1867年7月6日)死亡した。享年29歳。
彰義隊とは
鳥羽・の戦いに敗れた幕府軍は江戸へ帰還、徳川慶喜は朝廷へ敵意のないことを示すため、上野寛永寺で謹慎をする。
これに不満な幕臣の本多敏三郎と幕府陸軍調役の伴門五郎が檄文を発っし、同志へ会合を持ち掛ける。
雑司ヶ谷の酒楼「茗荷屋」に、一橋家ゆかりの者たち17名が集まり、寛永寺で謹慎している徳川慶喜の復権や助命について話し合った。二月十七日(3月20日)には四谷鮫ヶ橋の円応寺で、30名ほどで会合を行った。
二月二十一日に開いた会合には一橋家の家臣で渋沢栄一の従妹にあたる渋沢成一郎も参加している。幕臣以外にも声をかけたため、諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士が参加している。その結果、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成され、薩摩の討滅を記した血誓書が作成された。
二十三日に浅草本願寺で結成式が行われ本陣が置かれる。阿部杖策の発案で組織を「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名し、改めて血誓状が作成された。
隊長には渋沢成一郎、副隊長に天野八郎が投票によって選出され、本多敏三郎と伴門五郎は幹部の任に付く噂を聞きつけた町人や博徒、侠客も参加し、隊が千名を超える規模になった。
四月三日浅草本願寺から上野寛永寺へ本陣を移した。
四月十一日に江戸城無血開城が成ると、徳川慶喜が謹慎していた上野寛永寺から水戸の講道館で蟄居するため移動した。彰義隊は慶喜を千住から下総松戸まで護衛を行ったが、彰義隊の本隊は寛永寺に残った。
脱藩平野旧幕臣が次々と合流し3,000~4000人まで膨れ上がった彰義隊を、勝海舟は新政府軍と武力衝突するのではないかと心配する。
何度か解散を促すものの徹底抗戦派の集まりである彰義隊は聞かない。
そのうち彰義隊士によるものと思われる新政府軍の殺人事件などが多発。新政府軍もいよいよ正式な彰義隊討伐を決定する。
渋沢成一郎は慶喜が水戸へ移動したことから、彰義隊も江戸から日光へ移動することを提案したが天野八郎は江戸、しかも徳川家の霊廟がある寛永寺での徹底抗戦を唱えたため分裂。天野派が渋沢の暗殺を謀ったため、渋沢は彰義隊から脱退。現埼玉県飯能で振武軍を結成し独自で抗戦を行った。
慶応四年五月十五日 大村益次郎を司令官とする新政府軍と彰義隊が激突。上野戦争が始まった。戦場は現在の上野公園を中心とする旧寛永寺の敷地内で、寛永寺の塔頭などはこの時そのほとんどが焼けてしまった。
午後には彰義隊はほぼ壊滅。残った者は宇都宮や会津、箱館戦争に参加した者もいた。会津への道の途中の足立区、荒川区付近の民家は逃げてきた彰義隊士をかくまった話や食料を渡したなどと云う話が残っている。
記録では彰義隊の戦死者105名に対し新政府軍56名であった。
このとき現埼玉付近にいた渋沢成一郎は彰義隊と新政府軍の回線を知り、応援に駆け付けようとしたが、途中で敗戦をしり退却した。
彰義隊戦死者の碑
毎年寛永寺などにより法要が行われている。
【アクセス】
所在地:東京都台東区上野公園1
西郷隆盛像近く
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