近藤勇妾宅|京都市|斎藤一、近藤勇暗殺計画を密告す

謀略・事件の場となった重要な場所

近藤勇妾宅跡・このあたりと思われる

近藤勇の妾宅基本情報

妾宅はただ近藤勇のお妾さんが住んでいただけでなく新選組幹部達が屯所では話せない秘機密事項を話す場としても使用されていた。

斎藤一が近藤勇暗殺の一報を入れた場にもなり、伊東甲子太郎暗殺の計略を練った場でもある。さらには伊東甲子太郎暗殺のため酒宴を開き油小路の変において重要な役割を担った場所である。現在はビルになってしまっていて跡形もないが、粛清と謀略の新選組にとっては重要な史跡である。

斎藤一、近藤暗殺の謀を密告

永倉新八が残したところによると、

慶応3年11月15日(1867年12月10日)当時新選組が屯所としていた西本願寺(※)に非人姿*1の訪問者があった。伊東一派分裂の折、間者*2として一派についていった斎藤一が変装した姿であった。守衛に「密かに永倉新八にあわせてくれ」と云う。
永倉新八が何事かと外に出ると、「かねろ(て)隊長から頼まれていた大事について話したいから向こう側の隊長の妾宅まで近藤を連れてきて貰いたい」と云った。
 新八は委細承知と近藤に話を通すと、土方歳三、沖田総司と妾宅へと向かった。
斎藤は「隊長の内意を受けて高台寺に起臥すること約そ六か月。ようやくかの伊東の心底を見届けて御座る。その次第はかくかくの相談」と。
斎藤が言うには「結局拙者(斎藤本人)が近藤を斬るを合図に、伊東一味のものは本願寺学林におる新選組の幹部を殺害し、隊士は説得して同志にすること、すなわち真の勤王党として伊東の幕下にしよう」との一切の秘謀を打ち明け「もはや猶予は相成り申さぬ。早速お手配あってしかるべし」というのであった。これには永倉も驚いたそうだ。

近藤勇、御陵衛士(高台寺党)の壊滅を謀る

斎藤が屯所に現れた三日後の慶応3年11月18日(1867年12月13日)
斎藤から自信の暗殺計画を知った近藤はいかにして御陵衛士を壊滅させようかと思案する。
「イヤ、斎藤氏の苦心は深く拙者の感パイするところでござる。今朝、伊東が尋ねてきたって長州へ間者に入り込むについて、金子三百両借用したいと申し込んでまいった。幸いであるから右の金子を相渡すと偽って呼び寄せ、暗殺しようではござらぬか」と相談した。
一同それが宜しからんと、何気なく伊東の許へ使者をもって「今朝お申し入れの金子。今夜お手渡し申すによってご来訪を乞う」といって遣る。甲子太郎は大きに喜んで四名の同志(※2)を引き連れ、近藤の許を訪ねてきた。
勇は妾宅へ呼び入れて「好いうこそ見えられた。金子は会津家よりいまだ参り申さぬが、追ってまいるはず。酒など召されてしばらく待たれよ」と酒宴を開く。
一方で近藤は、大石鍬次郎、宮川信吉、横倉甚五郎の隊士たちを七条通り油小路下るところへ伏せさせる。
「さて伊東氏、今宵は必ず会津家から金子を届けるはずであったが、都合で明朝に伸ばすと申し越した。ご依頼の三百両は明朝、当方からお届けもうすでござろう」というと伊東は「さようでござるか。しからば、このまま立ち帰るでござろう」と挨拶して機嫌よくたった。
こして近藤の妾宅を辞した伊東だが目と鼻の先の油小路・本光寺で最期を遂げる。本光寺についてはこちら>>

沖田総司襲撃未遂事件

油小路の変・油小路事件から生きてに¥脱出することのできた伊東派残党は新選組、特に近藤勇への復讐心を燃やしていた。


伊東甲子太郎暗殺からちょうど一か月後の慶応3年12月18日(1868年1月12日)、二条城に出向いた局長の近藤勇が屯所へ戻る途中に銃で狙撃された。襲撃したのは富山弥兵衛と阿部十郎、篠原泰之秦であった。近藤を襲うだけでは収まらない伊東派残党はまさに同日、この妾宅を襲っていたのだ。


妾宅には当時肺を患った沖田総司が療養中であったのだ。沖田が妾宅で弱り切っているという噂を聞きつけ、襲撃計画を練った。


 阿部は18日の夜もまだ明けないうちから、同じ御陵衛士の内海次郎と佐原太郎に声をかけると、妾の家を襲撃する。午前10時ごろといわれている。

 刀に手をかけていきなり土足で踏み込んだ3人だったが、家の中にいたのは1人の女性だけで、沖田の姿はなかった。この女性が近藤の妾かどうかはわかっていない。

 3人は家中をくまなく捜すも襲撃が空振りに終わったことを知ると、女性に沖田の所在を執拗(しつよう)に問いただした。

 すると、あまりのしつこさにうんざりした女性は沖田が昨夜の午後10時ごろ、伏見奉行所に向かって出発したことを話してしまったのだ。

 「今から伏見に向かっても」。万事休すだった。

 産経WEST【歴史事件簿】から引用

「妾宅」に住んでいた妾は誰だったのか

妾宅と言えばお妾さんの家である。ということは当然近藤勇の愛妾が住んでいたことになる。天下の新選組の局長と云えば色を好むことでもよく知られ愛人が何人かいた。その中でも大坂織屋の深雪太夫を落籍させ、深雪太夫の死後はその妹・お考も妾として世話をしていたことは幕末ファンの間でも有名な話。この醒ヶ井の妾宅にはこの深雪太夫・お考姉妹が住んでいたと思われる。


【アクセス】

所在地:〒600-8233 京都府京都市下京区北不動堂町 堀川塩小路上 と思われる。
当時は醒ヶ井通木津屋橋下ルにあったとされていたので現在は堀川塩小路上る

(※1)永倉新八は西本願寺といっているが当時は6/15日に不動村の屯所へ移っていたはずなので永倉の記憶違いと思われる。
(※2)伊東は下僕一人を連れてきたとされているので4名の同志は永倉の記憶違い
*1・・・河原者・無宿者いまでいうホームレスのような恰好だったと思われる
*2・・・スパイの事

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