謀略・事件の場となった重要な場所
近藤勇妾宅跡・このあたりと思われる |
近藤勇の妾宅基本情報
妾宅はただ近藤勇のお妾さんが住んでいただけでなく新選組幹部達が屯所では話せない秘機密事項を話す場としても使用されていた。
斎藤一が近藤勇暗殺の一報を入れた場にもなり、伊東甲子太郎暗殺の計略を練った場でもある。さらには伊東甲子太郎暗殺のため酒宴を開き油小路の変において重要な役割を担った場所である。現在はビルになってしまっていて跡形もないが、粛清と謀略の新選組にとっては重要な史跡である。
斎藤一、近藤暗殺の謀を密告
近藤勇、御陵衛士(高台寺党)の壊滅を謀る
沖田総司襲撃未遂事件
油小路の変・油小路事件から生きてに¥脱出することのできた伊東派残党は新選組、特に近藤勇への復讐心を燃やしていた。
伊東甲子太郎暗殺からちょうど一か月後の慶応3年12月18日(1868年1月12日)、二条城に出向いた局長の近藤勇が屯所へ戻る途中に銃で狙撃された。襲撃したのは富山弥兵衛と阿部十郎、篠原泰之秦であった。近藤を襲うだけでは収まらない伊東派残党はまさに同日、この妾宅を襲っていたのだ。
妾宅には当時肺を患った沖田総司が療養中であったのだ。沖田が妾宅で弱り切っているという噂を聞きつけ、襲撃計画を練った。
阿部は18日の夜もまだ明けないうちから、同じ御陵衛士の内海次郎と佐原太郎に声をかけると、妾の家を襲撃する。午前10時ごろといわれている。
刀に手をかけていきなり土足で踏み込んだ3人だったが、家の中にいたのは1人の女性だけで、沖田の姿はなかった。この女性が近藤の妾かどうかはわかっていない。
3人は家中をくまなく捜すも襲撃が空振りに終わったことを知ると、女性に沖田の所在を執拗(しつよう)に問いただした。
すると、あまりのしつこさにうんざりした女性は沖田が昨夜の午後10時ごろ、伏見奉行所に向かって出発したことを話してしまったのだ。
「今から伏見に向かっても」。万事休すだった。
「妾宅」に住んでいた妾は誰だったのか
妾宅と言えばお妾さんの家である。ということは当然近藤勇の愛妾が住んでいたことになる。天下の新選組の局長と云えば色を好むことでもよく知られ愛人が何人かいた。その中でも大坂織屋の深雪太夫を落籍させ、深雪太夫の死後はその妹・お考も妾として世話をしていたことは幕末ファンの間でも有名な話。この醒ヶ井の妾宅にはこの深雪太夫・お考姉妹が住んでいたと思われる。
【アクセス】
所在地:〒600-8233 京都府京都市下京区北不動堂町 堀川塩小路上 と思われる。
当時は醒ヶ井通木津屋橋下ルにあったとされていたので現在は堀川塩小路上る
(※1)永倉新八は西本願寺といっているが当時は6/15日に不動村の屯所へ移っていたはずなので永倉の記憶違いと思われる。
(※2)伊東は下僕一人を連れてきたとされているので4名の同志は永倉の記憶違い
*1・・・河原者・無宿者いまでいうホームレスのような恰好だったと思われる
*2・・・スパイの事
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