芹沢鴨・平間重助ゆかりの地~新選組初代局長生家など~|新選組ゆかりの地 茨城県行方市

新選組初代局長・芹沢鴨および副長助勤・平間重助は水戸藩芹沢村(現・茨城県行方市玉造芹沢)の出身である。

京都には及ばないが茨城県にも新選組ゆかりの地は複数存在している。

芹沢鴨生家跡

芹沢鴨・平間重助ゆかりの地|茨城県行方市
芹沢鴨の生家とされている家
 霞ヶ浦のすぐ近くに芹沢鴨生家がある。新選組の初代局長そしてその壮絶な最期で有名な芹沢鴨だが、浪士組に参加する以前については謎が多い。

そのため生家も資料に基づく憶測でしかない。

①多賀郡松井村(現北茨城市中郷町松井)の神官・下村祐の実子で、松井村の出生説

②島田魁の『英名録』の末尾には鴨の名前の右横に「又左(右)衛門子」との記載があり、水戸藩士の芹沢分家出身ともいわれ、日置流雪荷派弓術の名人・芹沢又衛門以幹の子だとする説。

③永倉新八の「常州水戸の郷士で真壁郡芹沢村の産」、「芹沢村浪人」という表現から、水戸藩上席郷士・芹沢貞幹(さだお)の三男「元太」とする説。

しかし真壁は現在の栃木県寄りに位置し、芹沢村は霞ヶ浦の湖畔にある。

真壁の中に芹沢という地名はない。

真壁または芹沢のどちらか、または両方が永倉新八の勘違いという可能性がある。

永倉は茨城県栃木県の地理には明るくなかっただろうから間違えても当然と思う。

行方氏は③の説を採用し、芹沢村を芹沢鴨生誕の地と定めた。

しかし近年、芹沢貞幹の四男・長谷川庄七の存在が確認された。

庄七は文政7年(1824年)もしくは文政9年(1826年)生まれのため芹沢が三男の場合、計算が合わない。

芹沢は天保3年(1832年)生まれが有力である。

また芹沢家菩提寺の法眼寺過去帳に芹沢兵太の妻の名が書かれている。

兵太は1868年に芹沢家に所属しており、兵太が三男ではないかといいわれている。

とすれば芹沢貞幹と鴨は関係のないことになり、この生家は芹沢鴨とは関係のない場所ということになる。
鴨は「芹沢鴨」になる前は「下村継次・下村嗣司」と名乗っており、芹沢鴨に改名したのは浪士組に参加した時である。

つまり生まれながらの「芹沢」姓ではない可能性がある。

そのため①の神官の子供説が浮上した。

しかし北茨城市は芹沢村から遠く離れている。

下村姓を名乗っている時代、鴨は「玉造勢」と呼ばれる思想の集団に所属していたと思われている。

玉造勢とは芹沢村と同じく茨城県行方市内にあった玉造郷学校出身の者たちを中心に作られたグループである。

もしかしたら水戸で玉造勢と出会った可能性もあるが、北茨城と玉造はあまりにも遠い。

下村→芹沢に変更しているのは本人の手紙などからも間違いはない。

しかし当時は今ほど姓名を変更するのに抵抗があった時代ではない。

斎藤一のように何度も名前を変えている例もある。

特に芹沢鴨は活動家だったため潜伏したり役人の眼をごまかす必要もあっただろう。

芹沢→下村→芹沢 という変遷の可能性も捨てきれない。

縁もゆかりもない地名を名乗るとは思えないので、茨城県芹沢村が出身である可能性が高いが、芹沢村の「芹沢さん」だったのか、芹沢村の「下村さん」だったのかは判然としない。

個人的には島田魁の書き残している「又左(右)衛門子」と永倉新八の芹沢村を足して、芹沢村に居た又左(右)衛門子の子ではないのだろうかと思う。

芹沢鴨・平間重助ゆかりの地|茨城県行方市
芹沢鴨の案内板 芹沢貞幹の三男説を採用

芹沢鴨生家跡所在地

〒311-3501 茨城県行方市芹沢475
澤屋商店の道路を挟んだ空地に車をとめて徒歩で生家、法眼寺を回るのがおススメ

法眼寺

芹沢鴨・平間重助ゆかりの地|茨城県行方市
芹沢家の菩提寺・法眼寺にある顕彰碑
鴨の生家とされている場所の裏に法眼寺がある。
法眼寺は芹沢家の菩提寺で芹沢家代々の墓がある。
平間家の墓もあるが芹沢家の墓は墓所の一番高いところにあり墓所を見渡している。
墓の一からしても芹沢家がこの土地で代々の名士だったことがうかがえる。
また生家のすぐ近くに「芹沢城跡」があり、芹沢家はこのあたりの殿様だったという説もある。
顕彰碑には案内版と同じ内容が書かれている。
隣の小さな碑はお梅の顕彰碑である。
菱屋太兵衛の妾を鴨が奪ったとされていたが近年、菱屋太兵衛は独身だったことが判明。
さらに菱屋は新選組屯所がおかれた前川の親戚だったこともわかり、お梅は菱屋の身内だったことが明らかになった。
お梅は実家の菩提寺である京都・長円寺に埋葬された。
行方市の有志によりこの長円寺の墓の土が持ち帰られ、この顕彰碑に埋葬された。

法眼寺所在地

〒311-3501 茨城県行方市芹沢505

玉造郷校跡

 玉造の郷校*は水戸藩の安政の改革の一環として建てられた。

授業への参加者郷士、医者、役人、農兵、猟師など様々な組織・身分の者が参加していた。授業は武術と講釈があったが参加者は武術、特に砲術への参加が圧倒的に多かったという。
尊王攘夷運動が盛んになると玉造郷校は尊攘派有志の集会拠点となった。

天狗党の前身・玉造党の拠点である。
元治元年(1864年)天狗党の騒乱の際、後者は燃えてしまった。
下村継次(芹沢鴨)と平間重助もここで学んだとされており、芹沢はここで砲術を学んだとされている。

浪士組に参加する前は天狗党に参加していた芹沢だけにこの郷校の集会にも当然参加していたと思われる。
現在は空地と案内板が残るのみである。
*郷校とは郷学、郷学校ともいわれ江戸時代に建てられた教育機関の事である。

芹沢鴨・平間重助ゆかりの地|茨城県行方市
玉造郷校跡

芹沢鴨・平間重助ゆかりの地|茨城県行方市
玉造郷校跡の案内板

玉造郷校跡所在地

〒311-3512 茨城県行方市玉造甲
※住所がないのですぐ近くの大山守大場家郷士屋敷を目指していくとよい。駐車場もある。



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