ざっくり八・一八の政変とは・・・当時朝廷では会津・薩摩・長州の権力争いが勃発。しかし長州台頭を危惧した会津と薩摩、中川宮が手をくみ長州、三条実美らの勢力を朝廷から追い出した事件。堺御門の変、文久の政変、とも呼ばれる。
八・一八と新選組出陣
文久3年8月18日(1863年9月30日)昼頃、会津藩お預かりの壬生浪士組に出陣が要請された。当時の局長芹沢鴨、副長・近藤
蛤御門に到着したはいいが新選組を知らない会津藩兵がなにごとか新選組を止めた。
中にも真っ先に進む芹沢鴨、近藤勇、新見錦の眼の先へ、槍の穂先を閃かし「何者だ。名乗れ名乗れ」と怒鳴った。その見幕に近藤と新見はタヂタヂと後退ったが芹沢はさ すがに平然として「拙者どもは会津侯お預かりの新撰組壬生浪士組なり。無礼して後悔するな」と大音声に答えた(永倉新八「新選組奮戦記」)
長州と戦争になるかもしれない為、気が立っている会津藩兵と力づくでも通ろうとする芹沢鴨。びびって後ずさる近藤と新見。味方同士で一触即発の事態であったが事情を知る公用方・西郷十郎衛門がやってきて事態は収まる。
蛤御門 |
新選組お花畑を警備する!?
ようやく御所の中に入ることの出来た壬生浪士だったが守備を命じられたのはなんと「御花畑」だった。
2008年の大河ドラマ「新選組!」では新選組がお花畑の守備を命じられるシーンがある。近藤(香取慎吾氏)は当惑して
「そのお花畑には何か大事なお花でも?」
「わしに聞くな」
というコント的やり取りがあり本当のお花畑を日が暮れるまで守るというシーンがある。
当時のドラマを見ていた小生は「お花畑を守れだなんて新選組はずいぶん軽んじられていたのだなぁ。応援が来たのはいいが怪しさ全開で重要な場所は任せられないので適当なとこにおいて置かれたんだなぁ。」と思っていた。
しかし永倉新八により「御花畑」は再び登場する。禁門の変の描写で
この時会津候松平肥後守は御花畑の旅館にあり・・・
御花畑はお花畑ではない!通称「御花畑」、本当の名は凝華洞(ぎょうかどう)。建礼門のすぐそばにあり、会津藩主・松平容保の別邸だった。容保が京都守護職屋敷(金戒光明寺)へ帰れないときに、宿舎として使用していた。つまり八・一八の際のは本陣だった場所。ドラマとは違い超重要な場所の守備を任されていたことになる。会津の藩士の中には存在を知られていなかった新選組でも、会津首脳陣の中では戦力として計算されていたに違いない。
しかし午後5時になると長州は東山の大仏妙法院まで撤退する。何事もなく政変は終了する。
禁門の変(蛤御門の変)
禁門の変銃弾跡 |
門扉に残る銃弾の跡 |
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