2020年5月に新調された土方歳三慰霊碑 |
天寧寺と近藤勇墓所
天寧寺は応永28年(1422)、傑堂禅師が11代芦名盛信の建立により創立した寺。かつては会津曹洞宗の僧録司で、末寺33カ寺、12の寺院をかぞえたました。のちに伊達氏の侵攻にあって焼けたため、芦名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみです。引用:会津若松観光ナビ
本堂の裏側の山が墓地になっていおりそこに近藤勇と土方歳三の墓所がある。
近藤勇墓所(会津若松)
近藤勇の墓は3か所ある。
東京都三鷹市の龍源寺・東京都北区の慰霊碑、そしてここ福島会津若松の天寧寺だ。
会津戦争の最中、近藤勇の処刑を知った土方歳三が松平容保に頼み込み、ここ天寧寺に墓地を建立したと伝えられている。
土方は持っていた近藤の遺髪などを埋葬した。
近藤と土方は、流山で近藤が新政府軍に投降して以来あっていないはずなのでなぜ土方が近藤の遺髪を持っていたのかは謎であるが、親族か支援者が手紙などと一緒に送ったか、それとも流山で死を覚悟した近藤が土方に託したか、もしくは江戸にいた誰かが会津まで運んだのかなどなど想像は尽きない。
現在の墓石は土方が建てたものではない。
墓石には近藤家の家紋丸に三つ引き、「慶応四戊辰四月二十五日卒」という文字、そして近藤の戒名が刻まれている。
戒名である「貫天院殿純義誠忠大居士」は松平容保から授かった。
墓を建てた土方歳三としては光栄なことであっただろう。
近藤の首が眠っている?
一般の研究家の調査で福島・会津説が急浮上している。幕末史料を多数所蔵する京都の霊山(りょうぜん)歴史館もこの説を支持し、根拠となる近藤の刀を入手、展示している。「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此(こ)の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」近藤の愛刀とされる「阿州吉川六郎源祐芳(あしゅうきっかわろくろうみなもとのすけよし)」の鞘(さや)に貼り付けられたメモ書きの文面の一部だ。内容は刀の来歴で、京都の三条河原にさらされた近藤の首を「下僕」が盗み出し、この刀とともに会津に持ち去って首を埋葬したというもの。寺社などから聞いた話といい、書いた主として「陸軍少将 若松市(現会津若松市)長 松江豊寿(とよひさ)」と署名されている。
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さらなる調査はされておらず真偽のほどはわからないが、近藤勇の墓の説明版にははっきりと「首塚」と書かれており、この記事を支持していると思われるが、いまだ確定ではないのでここまではっきりと断言するのは疑問が残った。
2004年に放送されたNHK大河ドラマ「新選組!」ではこの説が採用され、松平容保が斎藤一に京都にさらされている近藤勇の首を取り戻し、会津に持って帰るよう指示する場面が描かれている。
近藤勇辞世の句碑
土方歳三慰霊碑
近藤勇の墓の隣には土方歳三の慰霊碑がある。
土方歳三は北海道の箱館で戦死しており、遺体は見つかっていない。
この慰霊碑はこれは会津若松ライオンズクラブが、昭和63年の近藤勇没後120年慰霊祭記念日に北海道から松の木を取り寄せて制作したもの。
しかし木製であるため痛みが進み、2020年に新調。
今年2020年近藤勇の命日にあたる4月25日に除幕式が行われた。
コロナによる緊急事態宣言中だったため関係者のみでひっそりと行われた。
筆者が訪れた当時は土方歳三の慰霊碑は近藤勇の墓の向かって右側に位置していたのだが、左側に移された。
これは近藤勇が刀を抜くときに土方に当たらないように場所を変えたのだという。
武士として生き武士として逝った二人に対する最大の配慮ではなかろうか。近藤の墓前と土方の慰霊碑の前には現在でも花や酒の供え物が絶えない。
この天寧寺には土方のほかに藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任をとり明治2年に切腹した萱野権兵衛と、その次男・郡長正の墓もある。【アクセス】
〒965-0813 福島県会津若松市東山町石山天寧208
電話: 0242-26-3906
車:磐梯河東ICをおりて県道64号を進む
電車、バス:若松駅前から千石・神明線:のバス乗車神明先回り鶴ヶ城西口方面
「御薬園西口」下車徒歩13分
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