京都守護職本陣・金戒光明寺「くろ谷」 |
金戒光明寺と会津藩・新選組
文久二年、会津藩は京都守護職を拝命する。役割は治安が悪化していた京都の治安維持。同年 2月24日 会津藩・藩主 松平容保は家臣千名と共に京都に到着。金戒光明寺に本陣を置いた。なぜ、金戒光明寺が本陣に選ばれたのであろうか。以下は金戒光明寺公式HPからの引用である。
1.城構えだった
黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。因みに山内の西翁院にある淀よど看みの茶席(重文)は、茶席より淀川の帆船を見ることが出来たのでこの名が付けられた。また、黒谷古地図によると浪華城遥よう矚しょくとあり大坂城まで見えたという。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ、直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしているのである。
2.要所に近い
御所まで約2㎞、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点までは1.5㎞のくだり、馬で走れば約5分、人でも急げば15分で到着できる要衝の地であった。
3.千人規模の軍が駐屯できた
約四万坪の大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯できた。 本陣といっても戦国時代の野戦とは違い野宿ではなくきちんとした宿舎が必要であった。黒谷には大小五十二の宿坊があり駐屯の為に大方丈及び宿坊二十五ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されている。
以上が選ばれた理由ではないかと思われる。
引用元 https://www.kurodani.jp/roots/
新選組と会津藩
文久三年 清川八郎の江戸帰還に異を唱えた近藤勇、芹沢鴨一派は当時の浪士組の世話役鵜殿鳩翁を通じて会津藩お抱えとなる。
文久3年1863年3月12日京都残留浪士たちの会津藩おかかえが正式に決定する
そもそも浪士組は 上洛する将軍・徳川吉茂の護衛をするという目的のために集められていた。しかし肝心の将軍がまだ京都に来ていない。そこで近藤らに与えられた役割は京都守護職の一端を担うことであった。任務は京都市中の治安を維持することである。
近藤らは八木邸に「壬生村浪士屯所」と看板を掲げた。
その後、松平容保から浪士組は人数不足であるから同志をつのり一隊を組織せよ、との命をうけ京都市中から隊士を募集することとなる。このとき「禁令」も作られ名を「新選組」と改めた。
新選組御前試合を行う
文久3(1863)年4月16日
江戸に残った浪士組全員が金戒光明寺へ呼ばれ松平容保の前で御前試合を行った。
御前試合は寺の大方丈前庭で行われた。
第一試合 土方歳三 対 藤堂平助
第二試合 永倉新八 対 斎藤一
第三試合 平山五郎 対 佐伯又三郎
第四試合 山南敬助 対 沖田総司
※大方丈前庭は普段は非公開
【アクセス】
所在地:〒606-8331 京都府京都市左京区黒谷町121
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