天満屋事件跡|京都府

 幕末当時この地にあった旅籠・天満屋。現在は京都油小路にあるお茶屋・美壽園とマンションの間にひっそりと祠と「勤王之士贈従五位 中井正五郎殉難之地」の石碑が建つ。


天満屋事件

慶応3年11月15日坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺された。のちの日本国外務大臣・陸奥宗光は紀州藩の三浦休太郎が暗殺犯と考え海援隊・陸援隊とともに三浦襲撃を計画、実行した。当時三浦が隠れていた旅籠・天満屋の名をとって「天満屋事件」または「天満屋騒動」と呼ばれる。

紀州藩はいろは丸沈没事件をめぐって坂本龍馬と遺恨があった。いろは丸は1860年代にイギリスで建造され、伊予国大洲藩が所有していた蒸気船。坂本龍馬は大洲藩からいろは丸を借り受け、長崎から大阪へ向かって航行していた。そのさなか紀州藩の明光丸と衝突・沈没。坂本龍馬をはじめとする海援隊のメンバーは明光丸に救われ死者こそ出なかったものの、借りていた船を沈没させたととあっては海援隊は多額の賠償金を大洲藩に支払わなくてはならない。

坂本は賠償交渉にあたり、当時日本に持ち込まれたばかりだが世界では当たり前になっている万国公法を持ち出し、全面的に紀州藩側に過失ありとした。交渉にあたったのが責任者の茂田一次郎と三浦休太郎。

交渉は長引いたが最終的に紀州藩が折れ積荷代に相当する賠償金8万3526両198文(約164億円)を支払うことで決着した。紀州藩の交渉責任者であった茂田一次郎は責任を取り切腹した。

賠償金は一度土佐藩に支払われその後坂本龍馬に支払われる予定であったが、11月15日近江屋にて中岡とともに暗殺されたため賠償金を受け取ることはなかった。


登場人物

攻め手:陸奥宗光、中井正五郎 ほか合計16名

守り手:紀州藩:三浦久太郎、三宅精一、関甚之助ほか

    新選組:斎藤一、大石鍬次郎、梅戸勝之進、宮川信吉、舟津釜太郎、ほか2名

 近江屋事件を受けて自分が容疑者として海・陸援隊から狙われていることを知ったか悟ったかした三浦は新選組に身辺警護を依頼する。守り手である斎藤一、大石鍬次郎は伊東甲子太郎一派を暗殺した油小路事件によって伊東派残党から命を狙われていた。そのため三浦を警護しがてら共に天満屋にて隠遁していた。伊東を暗殺した油小路本光寺のすぐ近くの天満屋に隠れていたとは灯台下暗し、伊東派残党も気づくまい。

 慶応3年12月7日(1868年1月1日)、天満屋の2階で宴会を行っていた紀州藩および新選組一党。そこへ海援隊・陸援隊士ら総勢15~16名が襲った。斎藤一は後ろ傷を負わされさらにとどめを刺されようとしていたところ、梅戸勝之進が襲撃者を体当たりでとめたために一命をとりとめた。


この晩はひどい雪降りでしてね。こちらでは近藤先生の親類にあたる宮川信吉氏が討死し、梅戸勝之進というのが、ひどい深手でした。この人はこれ切り、戦争などの役には立たなくなって、御旗扱いというのもを務めておりました。

~省略~

ずっと明治になって、東京で当時実際にやった斎藤一氏にこの話を詳しく聞いたことがあります。その時に、いつやってくるか解らないので自分は鎖を着て酒をのんでいた。ところが酔ってくると体がほてりだして、この鎖が窮屈で邪魔になっていけないのでいっそ脱いでしまおうと思い、 手の甲から中指にかかっているところを取ろうとしたが中々とれない、二三度やって見るが駄目なので、ええ面倒臭いと、そのままにして、盃を持つと、そこへどっと斬込んで来たんだ。

相手もなかなか冴えたもんだった。 何しろ行燈が消えて真っ暗で、しかも狭い座敷の中だからやり切れない。夢中で暴れている中に、どうも三四度刀が自分のからだにさわったように思うが痛くもないので、なおも頼りにやっていると、

「其奴は何か着ているようだ。斬っても駄目だから、突け、突け」

と叫んでいるのが聞こえた。

 「畜生! 来い!」

と思っている中に、ばたばたと戦争は済んでしまって、自分は傷一つ負わなかった。 これも鎖帷子のおかげで、あれは実にいいものです。 あなたは刃と刃を合せた斬り合をしたことはないそうだが、実際刃を抜きあって、「きア来い」となると、敵が、こう来たからこう避けて、こう斬るーーなんてうまい事が出来るもんじゃない、ただ夢中で切ったり突いたりする。敵がばったり倒れてはじめて「まぁよかった」と思うくらいのものである。剣術なんてものが要するに、刀を早く振り回すことだけ知っていればいいので、そういう時は、ただ早いとこ勝負だから。天満屋の一件でも、私はあいてのどこをどう切ったのか突いたのか一切わからない。第一相手が何人くらいいたのかさえ分からなかった。(子母澤寛「新選組物語」より稗田利八翁思出話)

 当事者によれば暗闇の中の無我夢中の戦いであったそうだ。事件での死者は討幕派は十津川郷士の中井生五郎ら2~3名。紀州藩・新選組側は宮川信吉と舟津釜太郎の2名が死亡。三浦久太郎は中井によって顔面に重傷を負ったものの命は拾った。海援隊・陸援隊の目的は三浦を討つことにあったため襲撃は失敗したとみてよいだろう。

所在地:〒600-8347 京都府京都市下京区仏具屋町 油小路町花屋町下仏具屋235



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