若き日の大石鍬次郎が修行で訪れた地 佐倉「油屋」|千葉県佐倉

 千葉県佐倉市は江戸時代佐倉畔として栄えた。藩主は幕府で老中を務めるなど要職を歴任。そのため城下町として栄え今でも歴史の面影を色濃く残している。

佐倉一里塚・旧旅籠「油屋」

旅籠・油屋

佐倉一里塚は明治時代から昭和初期にかけて呉服屋「駿河屋」だった。現在も「駿河屋」として建物が保存されている。江戸時代は旅籠’油屋で、当時の宿泊簿が残されており、そこには長州の偉人「桂小五郎」の名前もある。


桂小五郎の名がある宿帳パネル

桂小五郎は江戸に剣術留学を許されており練兵館で修業を積んでいた。嘉永3年に桂はほかの道場と他流試合にきており、その際に油屋に宿泊した。しかし油屋は桂だけでなく江戸で剣の修行をするわかものたちが下総で出稽古をする際に泊まる定番の旅籠だったようだ。実はこの油屋に宿泊した新選組隊士がいる。

 それは子母沢寛によって「人斬り鍬次郎」の悪名をつけられてしまった「新選組諸士調役兼観察大石鍬次郎」だ。宿泊簿は個人の方が所蔵しているため、閲覧はできないが、佐倉市史に780余名の宿泊客の名前が記載されている。

その中に

「△一刀流石山権兵衛門人石山孫六内弟子、福嶋営内蔵、内弟子大石鍬次郎

 同六年十月廿八日夕着晦日出立」(参考資料:佐倉市史)

どうやら師匠の石山孫六、福嶋営内蔵の三人で宿泊した模様。嘉永6年10月28日の夕方に到着し30日に出発したようだ。二泊三日の剣修行。

大石鍬次郎は天保9年(1838年)の生まれであるから嘉永3年(1850年)は12か13歳ということになる。この歳で親元を離れ剣術修行というのは現代にしてみれば考えられないが、昔は14歳で立派な大人とみられていたので、通常の事なのだろう。さすがは武士の生まれ。

 大石鍬次郎は事情により生家を出奔し日野に流れ着き大工として働いている時に天然理心流に出会うのだが、ここに来たのは出奔前の前途洋洋の時期だってのであろう。

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