三条大橋 |
池田屋事件~擬宝珠に残る刀傷~
三条大橋の擬宝珠(ぎぼし)には池田屋事件の時についたのではと噂される刀傷がある。擬宝珠の設置は豊臣秀吉の時代にさかのぼる。
三条大橋の擬宝珠 |
ただし誰による傷なのかを探したところ、誰どころか本当にここで池田屋の続きがあったのかどうかも証拠としての文献資料は見つからず。都市伝説の域をでないようだ。
刀傷は北側から2つ目と南西から2つ目の擬宝珠についている。
三条制札事件
三条大橋にある高札場跡地 |
幕末当時、三条大橋の西詰には制札場があった。
制札場とは府代官や領主が掟、条目、禁令を板又は紙に記して掲示し、住民に法令の周知徹底を促した場である。
今でいう大衆向け掲示板である。
慶応二年(1866年)八月二十八日、ここに掲げられている「長州は朝敵である」という制札が引き抜かれ三条大橋のしたに捨てられるという事件が発生した。その前の八月二十日に長州再討伐が中止とされたにもかかわらずいまだに長州は朝敵であるという札が掲げられていることを不快に思った討幕派の仕業であるとされた。
九月二日に同じ内容の札が建てられるものの九月五日に再び捨てられるという事件が発生。
事態を重く見た奉行所では十日に札を立て直し、その警護を新選組に依頼する。
事件は十二日に起こる。
当時新選組は4手に分かれていた。原田左之助率いる12名は先斗町会所。大石鍬次郎一派は橋東の蕎麦屋の2階。新井忠雄率いる12名は酒屋。橋本皆介・浅野薫は物乞いに変装して制札場近くに潜んでいた。そこへ土佐藩士8名がやってきて制札を引き抜いたので浅野の合図でそれっと捕り物が始まった。
事件の前後を図らずも菊谷峯吉が目撃している。菊谷峯吉は坂本龍馬が軍鶏を買いに行かせたために襲撃をまぬかれたあの「峯吉」である。
「私は私の家に下宿していた大橋慎三と一緒に散歩に出ましてはからず四条小橋で宮川、藤崎、安藤、竹野、松島、山脇、などと云う連中七、八人と出会いました。どこへ行くのかと問うと、三条制札を壊しに行くといいます。大橋氏が「そんな真似はよせ。先方も警戒しているから危険じゃ」と強いて制止ましたので「それならよしてすぐ帰る」と縄手通りを北へあがりましたから・・」(鹿野安兵衛談・三条大橋制札場騒動)*鹿野安兵衛は菊谷峯吉の明治の名前
まず原田左之助率いる先斗町会所に待機していた12人が現場に駆け付けた。次に橋本皆介の報告を受けた新井忠雄が逃げようとする土佐藩士・宮川を取り囲む。おくれて大石鍬次郎らが合流する。
土佐藩側の8人は以下の通り(時勢叢談)
手負いにて新選組生け捕り 宮川助五郎
手負いにて河原町屋敷にて死 安東鎌次
手負いにて知積院旅宿にて死 藤崎吉五郎
この者のうち手負いのものもこれにあり
12日の夜より出奔いたし候
松嶋和助・沢田屯兵衛・岡山禎六・東川安太郎・中山鎌太郎
三条制札事件結末
生け捕りにされた宮川助五郎は新選組の屯所へ連行された。そこで宮川が土佐藩士であるということを知った新選組は驚く。元治元年に発生した明保野停事件で会津藩・土佐藩・新選組には因縁があったからだ。土佐藩では新選組の襲撃に警戒していたし、新選組も土佐藩の復讐に備えていたという。そんな中で起こった三条制札事件。新選組と土佐藩の因縁がより深くなってしまった。
とはいえ今回の件に関しては土佐藩士が法を犯していることは明白なため、土佐藩は9月19日に祇園の料亭・栂尾(とがのお)に近藤らを招き和解の宴をもよおした。
三条制札事件報奨金
三条制札事件に出動した隊士および褒章は以下の通り。3.5.7番隊を中心に出動したことがわかる。報奨金は手柄および現場に駆け付けた順というところか。
一金二十両
七番組頭 原田左之助
目付け役 新井忠雄
七番組 伊藤浪之助
同 内海次郎
一金十五両
七番組組長 安藤勇三郎
五番組 中条恒八郎
同 伊木八郎
七番組 水口市松
同物見 橋本会助
一金七両二分
組同心物見 加藤羆
同 矢口鎌助
一金千匹
目付け役 服部武雄
同 大石鍬次郎
三番組 蟻通勘吾
小林啓之助
一金千疋
池田小太郎
木下厳
(新選組始末記)
幕末の頃より賑わいが盛んだった三条大橋は現在でもスターバックスやごはんどころが並ぶメインストリートだ。スターバックスで珈琲をテイクアウトして新選組隊士になった気分で河原を散策するのも一興。
近藤勇の首さらされる
三条大橋所在地
〒604-8004 京都府京都市中京区中島町113
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