甲州・勝沼戦争から戻った甲陽鎮部隊117名の内51人が新選組から脱走している。永倉新八、原田左之助も江戸で近藤と喧嘩別れをしている。 江戸で体制を整え徹底抗戦するべく会津へむかう。
斎籐一負傷隊士を連れて会津へ先発
甲州勝沼戦争で負傷したものは浅草の今戸から会津の船にのって先に会津入りした。この時一行を率いたのは斎藤一。斎藤も甲州で負傷していた為一行を率いる役を担ったのではないか。
「斎藤一は手負い、病人の世話いたし会津表へ参る」(浪士文久報国記事)慶応四年三月十三3日
現在の浅草今戸船着き場 |
昔は今戸橋があった |
今戸船着き場・所在地
負傷者を先に会津へと向かわせた近藤・土方は五兵衛新田を仮屯所とした。戦う意思のある旧幕府軍の残党を集め会津へ向かう前に減ってしまった隊士の補充を図った。近藤ら一行を宿泊させたのは名主見習の金子健十郎。一行は48人。このとき近藤は「大久保大和(おおくぼやまと)」と名乗っていた。
五兵衛新田での活動
慶応4年3月15日
土方歳三合流。この時、新隊士の募集に成功しており48人が加わり112人の隊士が金子家に宿泊した。
殿 近藤勇 土方歳三
勘定所 大石鍬次郎 安富才助 横倉甚五郎 三井丑之助 島田魁 近藤芳助 近藤隼雄
御附人 柴岡剛造 村上三郎 菊池央 野村利三郎 白戸友衛 市村辰之助 清水卯吉 田村録五郎 円尾啓次郎 万田河三 大内鎗之介 阿部隼多 千田兵衛 吉田俊太郎
小姓衆 市村鉄之助 田村銀之助 玉置良蔵 上田馬之丞 畠山芳次郎 田村律造 (金子家史料)
さらに3人が加わり最終的に115人の大所帯となった。さすがに金子健十郎宅には全員は収容できないので観音寺、金子滝二郎宅へ分宿させる。
金子滝二郎宅
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慶応4年3月16日
旧幕府軍の軍事方で恭順派の松波権之丞が金子家を訪れる。翌日の17日には同じく恭順派の吉沢大助が金子家来訪。おそらく近藤に恭順を説きに来たのではないか。
最終的に213人まで膨れ上がっていた新生・新選組。寄せ集めの集団のため練兵をしなければならなかったが金子家ではそれもままならない。しかも新政府軍が着々と江戸へ向けて進軍してきている。そこで新選組は流山への転陣を決めた。ゆくゆくは会津へ行くつもりであっただろうが江戸付近にとどまったのは思った以上に葛ぶっていた旧幕府軍の侍たちが多く続々と合流してきたためであろうか。
五兵衛新田から流山へ流転
慶応4年4月1日
流山へ転陣する。
また日にちはわからないが、15日には名簿に名前があった大石鍬次郎、三井丑之助、市村鉄之助の兄・市村辰之助が脱走している。
三井丑之助は薩摩に寝返り明治を生きる。弟を置いて脱走した市村辰之助は出身の大垣藩に帰郷したと伝えられる。大石鍬次郎は一緒に脱走したと思われる三井に裏切られとらえられる。伊東甲子太郎殺害の罪で処刑されることとなる。
金子家所在地
〒120-0005 東京都足立区綾瀬4丁目14−24
観音寺所在地
〒120-0005 東京都足立区綾瀬4丁目9−6
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返信削除丁寧なブログですね。
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