新選組を一文字で表せと言われればファンは迷わず「誠」(まこと)の一字を選ぶだろう。新選組=誠は今や常識だが、山形の裾に誠の文字のデザインは、現代の新選組グッズに多用され実に様々なデザインや色が存在している。
どのデザインが実際に使われていた色なのか、またなぜ「誠」なのか。何に使われていたのか等改めてまとめてみた。
「誠」の種類
・青地に白文字
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誠 青地に白文字 |
一番よく目にする「誠」は子のタイプではないだろうか。しかしこのデザインは現代に入ってからのもの。新選組の隊服が浅葱色ということと新選組といえば「誠」ということでこの二つが合わさってこの青地に白文字というデザインが生まれたのではないだろうか。しかし、当時の証言にも資料にも浅葱色に白文字というデザインはない。
・赤字に白文字
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誠 赤字に白文字 |
八木為三郎の証言では「赤字に白の誠と山形模様」、永倉新八によると「赤字に白で誠の文字」。デザインの公式資料がないため証言に頼るほかない。
・赤字に金文字
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誠 赤字金文字 |
隊旗は赤字に金の糸で誠の文字が刺繍されていたという証言もある。新選組の組織編制が時代と共に変わっていったように隊旗も時代によって複数のパターンが存在したのではないだろうか。しかし証言から一致しているのはデザインは変わっても「誠」の一文字は変わっていないということだ。
・白地に赤文字 袖章
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誠 白地に赤文字 |
こちらも実物が残っており実際に使われていたことが確認されているデザイン。白字に山形の模様と赤文字で誠。このデザインは新選組隊士たちが袖につけた「袖章」
現在の身分証明書の役割を果たしたり同士討ちを避けるため戦場でつけられたとみられている。
実物は京都の霊山博物館にあり、島田魁の持ち物だったとされている。
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新選組の袖章 画像引用先:霊山歴史館 |
・赤字に白文字(誠忠)提灯
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誠忠 |
文久三年八月十八日、禁門の変勃発。この時壬生浪士組は「新選組」と隊名を下される。
騎馬提灯へ上へ長く山形をつけ誠忠の二字を打抜に黒く書置き候(騒擾日記)
もともとは「誠忠」だったが簡素化され「誠」になって野ではないだろうか。
なぜ「誠」をシンボルとしたのか
なぜ新選組は彼らのシンボルに「誠」を選んだのだろうか。
決められた経緯等資料が何も残っていないので現代においても真意は不明のままだがいくつか説はある
・試衛館ではなく誠衛館だった説
新選組幹部達の出身は近藤勇を道場主とする天然理心流の剣術道場だ。この道場の名は試衛館(しえいかん)だというのが通説だが、実は「試」ではなく「誠」の字ではなかったかという説がある。それゆえシンボルに「誠」を選んだという説だ。
江戸時代は漢字の意味はそれほど重要視されておらず、読み方が一緒であれば違う感じを使うことがよく合った。
例えば山南敬助は三南敬助と書かれることもあり、「さんなん」と読めれば「山」でも「三」でもどちらでも構わないのだ。
よって試衛館も「しえいかん」と読めれば「試衛館」と「誠衛館」の両方の字が使われていたという可能性は大いにある。
しかし最初の壬生浪士組は試衛館派だけではなかった。当時の局長・芹沢鴨が試衛館派の文字をシンボルとするのを許すわけがないのだ。「誠」の一文字を隊旗に使い始めたのは芹沢が亡くなってからだがその頃はすでに試衛館出身以外の隊士も多く在籍するようになっていた為、試衛館のシンボルを隊全体のシンボルにされるのは面白くなかったのではないだろうか。
・誠忠から誠になった説
前述した様に「誠」の一文字の前は「誠忠」の二文字がシンボルとして使われていた。
「誠忠(せいちゅう)」の意味は
まごころから出た忠義。誠心・誠意からする忠義。忠義ひとすじであること。また、そのさま。純忠。
「誠(まこと)」の意味は
うそ偽りのない心
現代の辞書からなので江戸時代と意味は違ってくるかもしれないがいかがだろう。こうして比べてみると「誠忠」と「誠」では「誠忠」の方が新選組のシンボルとしてはふさわしい気がしないだろうか。
筆者としては「誠忠」をシンボル化するにあたり簡素化して「誠」の一字にしたというのが一番しっくりくる。
旗のデザインと意味
前述したが新選組の隊旗や袖章には「誠」の文字と下に山形の文様が入っている。
この文様は「だんだら模様」と呼ばれ歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の衣装からとったと思われる。
当時の歌舞伎では赤穂浪士たちが主君の仇・吉良上野介を打つ際、黒の羽織に袖を白く山形に抜いた衣装を着用していた。
当時赤穂浪士たちは忠誠のシンボルだったため、新選組は将軍に忠誠を誓った組織だということを知らしめるためにだんだらを隊旗のデザインに採用したと思われる。
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