慶応三年(1867)六月十日に新選組総員の幕臣取り立てが決定する
佐野七五三之助・茨木司・岡田克見・中村 三弥・富川十郎・中村五郎・木幡勝之進・松本俊蔵・高野良右衛門、松本主税ら10名が、二君に仕えることになるとこれに反発した。じつは彼らは伊東派で、新選組を抜けて御陵衛士に合流しようと考えていたが、お互いの移籍は禁止という取り決めがあったため合流できず、困った彼らは会津藩のいる京都守護職屋敷 に行き、新選組脱退の嘆願書を提出した。 こちらも困った会津藩は新選組に知らせ、近藤勇、土方歳三、山崎烝、吉村貫一郎が同席して会談を行ったが、話し合いは平行線。
翌十四日、再度、京都守護職屋敷で話し合いが行われる。メンバーは昨日のメンバーに追加で大石鍬次郎、沖田総司、井上源三郎、志村信蔵・島田魁・宮川信吉らが加わり、新選組からは18名も出席している。
結局、佐野、茨木・富川、中村の4名が残る代わりに、他の6名の脱退を承諾することとなる。
組に残ることとなった4名は打ち合わせがあるので一室を借りたいといって、別室に入ると突然、4人とも自刃してしまった。
出てこない4人を不審に思った島田が、室内を確認すると自刃していたという。御陵衛士の記録では、新選組が殺害したとしているが、新選組の殺害を主張している側は誰一人としてこの場にはいないので陰謀論に過ぎない。
佐野らの遺体は新選組の屯所に運ぶこととなり、大石は指図を行い支度を待つために佐野の遺体の前に座ると、突如佐野が起きあがり、自分の喉から脇差を引き抜くと大石に斬りつ けた。
大石はかろうじて避けたが負傷して倒れた。これを見た志村が佐野の脇腹を脇差で刺し、その他の隊士が肩を三カ所と脇腹を四カ所も刺すと、さすがに佐野は動かなくなったという。(丁卯雑拾録)
『新撰組永倉新八』によると、近藤が佐野らに屯所に戻ってから議論をしようといい聞かせて大石と沖田が玄関に出ると、佐野らがいきなり部屋に駆け込んで 切腹したとする。そして、駆けつけた大石に佐野が腹から小刀を引き抜いて膝を斬りつけ、大石は斬られながらも抜き打ちに佐野を斬ったと伝えている。
大石の傷はによれば、右の額より首筋と右太股を五、六寸(五寸=約一五センチ)「丁卯雑拾録』、膝(永倉新八、阿部十郎)、眉、胸、腹(藤岡屋日記)
どちらにせよこの時大石が負傷したのは間違えないようだ。大石は駕籠で屯所に帰り、養生することになった。
大石鍬次郎、重役につく
新選組総員の幕臣取り立てが、六月二十三日に通達される。
大石は諸士調役兼監察という役職につく。
十一月三日、江戸で募集した新入隊士を率いて、土方歳三・井上源三郎らが不動堂村の屯所に到着すると、大石が新入隊士に説明会を開いた。
大玄関で足を拭って、ぞろ(大広間のやうなところへ通りますと、四十歳がらみの立派な侍が 出て来て、「ご苦労です、拙者は大石鍬次郎、いろ(諸士の心得方を申し伝へます、なほ御不 自由の点があったら拙者まで御申出で下さい」といつて、てきはきした口調でその日、その時からの注意をしてくれました。 (池田七三郎『幕末巷談』所収「新選組聞書」)
一方で、強欲と評する者もいた
大石と申(す)人は、元来禄を貪り、進席を悦び候人二而——(藤岡屋日記)
油小路の変/油小路事件
近藤、土方は伊東派の殲滅を決定する。
慶応三年十一月十八日(1867年12月13日)近藤は妾宅に伊東を呼び出す。しこたま酒を飲ませて酔わせて帰す。
ほろ酔い帰路についた伊東が七条油小路の本光寺に差し掛かったところ、待ち伏せていた大石鍬次郎が槍でついた。一突きでは絶命しなかった伊東は抜刀。刺客に人たち浴びせ「奸賊ばら」と叫び絶命した。
奸賊ばら(かんぞくばら)・・・心がねじけて邪悪な人。にくむべき悪人。ばらは複数形と思われる「このくそ悪党どもが!」くらいの意味だったと思われる。
天満屋事件
伊東を殺した大石と、スパイとして伊東派にいた斎藤一は伊東派から身を隠す意味も込めて紀州藩・三浦久太郎の警護に当たる
警護に当たった新選組隊士は大石鍬次郎、斎藤一、宮川信吉、中村小次郎、中条常八郎、梅戸勝 之進、舟津鎌太郎の七名。(浪士文久報国記事)
そこに土佐藩の陸奥陽之助ひきいる陸援隊・海援隊を中心としたメンバーが乗り込んでくる。天満屋事件で斎藤一がからくも命を拾った話はよく知られているが、この時大石がどんな役割を果たしたのかは全く伝わってい無い。
大石、話の分からない者と評される
慶応三年十月に大政奉還がなされるといよいよ幕府軍と薩長の衝突がささやかれるようになる。新選組は不動堂村屯所から伏見奉行所に滞在することとなる。
十二月二十五日ごろ、尾張藩は新政府軍と対峙している新選組を伏見奉行所から撤退させようと考え、藩士の荒川甚作・中村修を派遣する。
このとき負傷した近藤に代わり土方が新選組の指揮を執っていたが、ちょうど席を外していたので、大石が二人に対応した。 しかし思いどおりに話がつかなかったようで、交渉したふたりは、
「始メ隊長留守ニテ大石内蔵二郎卜云者応接ス。一向分ラヌ人ナリ」(『慶応三年雑記録』)
と、大石を話の分からない人物と評価している。
京都から江戸へ
慶応四年(1868)一月三日の鳥羽・伏見の戦いに敗れ、将軍・慶喜が江戸へ帰ってしまうと、新選組も大坂から順動丸と富士山丸に分乗して江戸に撤退する。
一月十二日に順動丸が品川に入港し、十四日に富士山丸が横浜に入港している。
大石は順動丸に乗船し品川に降りたようだ。
江戸に迫る新政府軍を止めるため甲陽鎮部隊と名を改めた新選組は、大石を先ぶれとして先遣させる。通行場所には近藤・土方の出身地、多摩、日野もあり大石は土地に明るかったため選ばれたとみられる。
三月四日大石、新選組本体駒飼で合流する。
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新選組が滞在した駒飼宿 |
大石は中村半兵衛と同道して近藤のいる名主宅の玄関に赴くと、うっかり刀を腰から外すのを忘れ ていて、名主より注意される。
「御提げ刀御差置き、御体面しかるべきか」(聞きがき新選組)
三月六日 甲陽鎮部隊と板垣退助率いる新政府軍で甲州戦争勃発。大石は隊長附の相馬主計と共にともに、本陣で近藤勇に付いていたという。
戦に負けた新選組はちりじりとなり江戸へ戻るが大石がどのルートで江戸へ戻ったのかは不明である。
隊長付だったため近藤と行動を共にしたのかもしれない。
江戸へ戻り、永倉、原田が脱退した新選組は五兵衛だ新田で隊士を募る。この時の名簿に大石の名があるので五兵衛だ新田まで大石は居たが、流山に流転する段階で脱走してしまう。
江府ニテ脱走 大石鍬二郎(横倉甚五郎日記)
大石鍬次郎の最期
新選組物語によると、隊を脱走した大石はあろうことか新政府軍に加わろうとする。
大石は新政府軍の本営にいた元御陵衛士の加納鷲雄を呼び出し、新政府軍に加われるように口を利いてほしい と頼んだ。加納はこれ幸いと大石を捕縛すると、油小路事件の恨み言を大石にぶつけた。大石は坂本龍馬殺害などの嫌疑で拷問されたうえ、三日後の朝に斬首されたという。
しかし、のちに阿部十郎が語ったところによると、どうしても伊東を殺した大石を許せなかった阿部が大石を探し出し捕縛したと語っている。どんなに馬鹿でも敵方である加納のところに便宜を図ってくれと頼みには行かないと思うので阿部の話の方が信ぴょう性が高いと思われる。
このころ大石は新吉と名乗り妻子と共に東京で隠れ住んでいた。
阿部、加納は、大石と仲の良かった三井という新選組隊士を使い、大石を加納の家に呼び出した(おそらく加納の家とは伝えていまい)。三井に裏切られた大石はあっさり捕縛。
加納の家へ大石を呼びましてそうして生(け) 捕りました。其の時分に東京府に刑罪を司っ て居る刑法局というものがありました。其(の)処へ大石を捕縛してからやって―(阿部隆明『史談会速記録』 )
大石は、このとき薩摩藩より、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺について追及されて拷問の末、暗殺を認めたが、兵部省の尋問に対して、先の自供は薩摩藩の拷問を逃れるための虚言であり、実行犯は京都 見廻組であると、新選組の関与を否定した。
私共暗殺に及び候段申し立て候得共、是は全く彼の薩摩)の拷問を逃れ候為にて、実は前申し 上げ候通りに御坐候。(坂本龍馬関係文書)
同じく兵部省に送られていた新選組隊士の相馬主計と横倉甚五郎も京都見廻組の実行とし、京都見廻り組の関与を認めていた。大石が捕縛された日時はわからないが、明治三年(1870)二月二十一日に大石の身柄が兵部省から刑部省に送られているので、二月中の出来事だったのではないか。
就縛候上は即坐に刎首致さると覚悟致し候に付き、右様の申し訳はいたし候も誓 (虚)言と存ぜ られ、私の所業の趣申し答え置き候。 (坂本龍馬関係文書)
(最初に暗殺を認めたのは、どうせ真実をいっても虚言と思われて すぐに殺されるだろうから、関与をほのめかしたのだ)
坂本龍馬暗殺に対する大石への嫌疑は九月二十日に晴れたが、そのまま拘束され続けた。
明治三年十月十日、刑部省において、大石の斬首という判決が下される。
大石捨次郎悴(倅)
元新撰組
大石鍬次郎
午三十二才
(『保古飛呂比・佐佐木高行日記』)
大石ら五名は刑部省から囚獄司に引き渡されることとなり、高橋東京府少属ら同府兵らに護衛さ しゅうごく れて午後一時ごろに小伝馬町の牢屋敷に到着した。
大石らの処刑は午後二時から執行されることになり、先に上田ら横井暗殺者メンバー四名の斬首が はじまった。ところが上田は、横井の処置や今後の親類の扱われ方などを教えてもらわない限り、罪 に服すことは出来ないと大声で申し立てをしたという。
これに戸惑った巡察属の役人たちは上田らの死刑を後回しにして、大石を先に斬首しようと引っ立てた。すると大石も上田の真似をして、伊東甲子太郎の殺害は決して罪ではないと、大声で申し立て をした。
ことゆえ 然右四人ノ外大石鍬次郎、前罪/事二而関係コレナキ事故、前後ヲ論ザズ早々引出シ行刑致 スペシ旨申シ出候二付、即答同意則引出シ候処、又々前上田立夫ノ如ク同様大声ニテ呼唱候故、 前同断相イ進ミ候処刑人申シ立テ候ニハ、伊勝(東) 甲子太郎儀ニ付テノ事ニテハ決シテ伏罪仕
ラズ候段申シ張り候。
(「巡察属届書」)
大石からすれば、公務で殺害した伊東のことで、罪を問われることに理不尽を感じたのだろう。 彼らの訴えに役人たちは上層部の指示を仰いだため刑の執行が遅れてしまうが、結局は午後四時までに大石らの斬首が執り行われた。
述懐
三十二年所何事。浩然正気臆間存。 生前途無雪君冤。一片丹心答國恩。
同
杖剱去郷寒暑侵崎嘔六歳幾浮沈。
従容披帙古今同。笑坐獄中鐵石心。 十五夜に窓より月の入りしを見て
思ひきや骸は野辺にさらすとも
ひとやのまどの月を見んとは
守親
(小島資料館 2節目が何らかの理由でカットされている)
述懐
三十二年所何事
浩然正氣臆間存
生前遂無雪君冤
一片丹心答國恩
守親
十五夜二窓より月の入りしを見てよめる
思ひ気や骸は野辺にさらすとも
獄屋のまとの月を見んとは
そして、歌吉の自筆と思われる文書に、カットした述懐が書き写されている。
何らかの理由で損傷したので歌吉が書き残したのだろうか。
述懐
杖劍去鄉寒暑侵 崎嶇六歲幾浮沈
從容披帙古今同
笑坐獄中鐵石心
無今古
死をわすれ 恥を志のひつ己か身は
いかてひとやもう記と思はむ御存知かは存ぜず候へ共御親
父落命の日は
明治三年十月十日
そして戒命は
速成院宗心日明信士
詩にも記され候通り壮年三十二歳
と存じ
守親の「守」は大石家の偉名にして 世に在り候節は
大石鍬次郎源守親
と申し候
(旧本間家文書)
首は品川の鈴ヶ森刑場にさらされた。
その後の妻と子
大正三年八月十二日付『中央新聞」に掲載された「刺客の妻」によれば、罪人の妻、子として親せきを頼ることができなかった、たかはお針子の仕事などをして生計を立てた。
鍬次郎の息子、雷太郎は歌吉と改名し、父親譲りの手先の器用さを生かしべっこう職人として暮らしたという。
参考文献
新選組銘々伝 二巻(新人物往来社)
阿部隆明談 史談会速記録
中央新聞
新選組奮戦記
佐倉市史
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