斎藤一会津での戦歴 |
斎藤一率いる会津新選組の戦歴
斎藤一会津入り
慶応四年三月十三日(1868年4月5日) 甲陽鎮撫隊でけがを負った斎藤一はほかの手負いの隊士達と江戸から船で会津へ向かった。
「斎藤一は手負い、病人の世話いたし会津表へ参る」(浪士文久報国記事)
慶応四年四月一日(1868年4月23日)流山で新選組局長・近藤勇が捕らえられた。
残った隊士達は各々会津を目指した。
京都からの隊士は40人ほどに減っていたが道中新規募集をかけて130人まで増えていた。
慶応四年四月二十九日(1868年5月21日 ) 流山で新選組本体とは別行動をとっていた土方歳三が会津入り。清水屋に投宿した。
会津戦争開戦
閏四月五日(1868年5月26日 ) 土方・斉藤ら新撰組は松平容保から金子を与えらる。
閏四月二十一日(1868年 6月111日 ) 藩境の白河口に出動する。
宇都宮で負傷した土方歳三に代わって隊長を務めたのは三番隊・組長 斎藤一(山口次郎)。
残っていた京都以来の副長助勤は斎藤のみになっていた。
副長は安富才助、軍目に島田魁、久米部正親を据えた。
閏四月二十二日(1868年6月12日) 白坂関門へ布陣する
四月二十五日(1868年6月15日) に白坂関門付近で新政府軍と激突する。
東軍(会津軍)は西郷頼母を大将に、白河関門の裏にある稲荷山に陣を敷いた。
西軍(新政府軍)側の記録によると、二十五日の白河・白坂関門の攻防は3時間にも及んだという。
この日の戦いでは敵を退けることに成功したものの激戦の中で菊池央(きくちおう)と横山鍋二郎が戦死。
五月一日(1868年6月20日) に行われた再戦では会津藩軍は大敗を期して白河口から撤退。白河小峰城は新政府軍の手に落ちた。
新撰組では伊藤鉄五郎が戦死して後方の勢至堂峠まで退却した。
その後会津軍および新選組は何度か白河小峰城の奪還を試みるが成功せず六月初めに猪苗代湖南の福良に転陣する。
島田魁は福良本陣からすぐの千手院で療養している。
福良には松平容保の養子で新藩主の喜徳が出張しており新選組と謁見して激励した。
そして同じくけがの為療養中だった土方歳三も、福良で新選組と合流をした。
母成峠の戦い
慶応四年八月十九日(1868年10月4日) 新選組は大鳥圭介の伝習隊、田中源真率いる会津藩兵と共に県境の母成峠の守備に就く。
怪我で離脱していた土方歳三も戦線復帰を果たすが、新選組として復帰したのではなく、旧幕府軍・参謀として復帰している為、新選組組長は引き続き斎藤一だったと考えられる。
白河小峰城を落とした新政府軍は会津の隣の藩、二本松藩をも落とし会津に攻め入ってくる。
母成峠の布陣は萩岡に第一台場、中軍山に第二台場、峠の頂上に第三台場をおき、新選組はと伝習隊は中軍山に布陣した。
東軍の兵力は合計800人だったという。
会津藩は二本松街道からの攻撃を想定していたが、新政府軍は濃霧にまぎれ混成軍の背後から攻撃を仕掛けてきた。
その数、数千※。会津軍は壊滅。新選組は木下巌、千田兵衛、鈴木錬三郎、小堀誠一郎、漢一朗、加藤定吉ら6人が戦死した。
※新政府軍の数は諸説あり。3,000とも70,00ともいわれている。
戦死者は新政府軍、会津軍合わせて104名。
新政府軍から敗走した新撰組は猪苗代城(亀が城)まで後退した。
土方歳三との別れ
斎藤一は鶴ヶ城へ登城し戦況を伝える。城内に控えていた兵士たちは、十六橋と滝沢峠へと出陣する。
戻った斎藤一と新選組は翌八月二十二日(1868年10月7日) 東山の天寧寺へと出陣した。
結果的に猪苗代城(亀が城)は土方歳三と会津新選組の別れの地となった。
天寧寺に出陣するにあたり斎藤ら新選組は甲賀町通りと会津楽市通りが交差する旅籠が立ち並ぶ一角にあった「斎藤屋」に宿泊した。
滝沢本陣に入った土方歳三は容保と容保の弟・桑名藩藩主・松平定敬と謁見。容保は鶴ヶ城籠城戦に向け鶴ヶ城へ戻る。
八月二十三日(1868年10月8日) 土方は同盟の庄内藩に援軍を依頼するため容保の実の弟の桑名藩藩主・松平定敬と共に会津を離れる。
しかし援軍要請は失敗。すでに新政府軍によって囲まれてしまっていた会津へ戻ることはできず、土方は箱館戦争に身を投じることとなる。
亀が城(猪苗代城)を落とした新政府軍は会津城下へと入る橋「十六橋」を渡る。
会津藩は新政府軍の行軍を防ぐために十六橋を破壊しようとしたが頑丈すぎて壊すことができなかったという。
陣が峯峠の戦い
大鳥圭介は会津では戦えないと判断し榎本武揚らの脱幕府兵士たちとの合流を謀ろうとしたが、斎藤の考えは違っており、会津を去ろうとしてい大鳥圭介に対して
「ひとたび会津(へ)来たりたれば、今、落城せんとするを見て志を捨て去る、誠義にあらず」(出典:谷口四郎兵衛日記)
「会津に来た今、落城しようとしているのを見て会津を捨てるのは正義ではない。私は新選組の隊名と共にここで死ぬつもりだ」と語ったと伝えられる。
松平容保から「新選組」の名を拝命した組織だったからこそ松平容保、会津と共に散るべきだと考えたのだろう。
如来堂の戦い
九月四日(10月17日)に新選組は小田付代官所から如来堂へ向けて出発。
会津藩家老の萱野権兵衛が布陣していた神指高久で戦闘が勃発し、如来堂の警備が薄くなるための応援だった。
100余名いた新選組は13名まで減っていた。
喜多方市にある小田付代官所から如来堂まで約21kmほどあり、新選組は四日に出発して同日如来堂に布陣している。
当時の武士たちの健脚ぶりがうかがえるが如来堂のすぐ西側には荒神山から会津盆地に流れ込む阿賀川が流れている。
もしかしたら新選組は喜多方から川を下って城下町付近まで戻ってきたのかもしれない。
徒歩にしろ舟での移動にしろ、長距離を移動してきたばかりで疲れていたはずの新選組を新政府軍が急襲する。
九月四日高久村にて戦争相始まり、当隊より応援として一小隊繰り出す。しかるに、ほどなく如来堂の本営へ敵兵不意に押し寄せすぐさま接戦相始まり、何分味方二十余人の小勢故、ほかに防御の術なくことごとく死す『島田魁日記』
九月五日早朝の如来堂の戦いで斉藤一ら13名の新選組隊士は敵の攻撃を受けて壊滅状態となる。
如来堂の新選組は全滅と伝えられ、斎藤一もこの時戦死したと思われていたが、生き残った。
同じく如来堂の生き残りでこの後、箱館まで行った久米部正親によると「船で逃げた」とあるため、喜多方から船で来たのではないかと一層考えてしまう。
13名ほどいた隊士達の内7名は脱出できた。
これにより北方は残らず敵のものとなる『島田魁日記』
島田魁によると敵に包囲されたため新選食い及び旧幕府軍約二千人は話し合いにより仙台へ行くことを決定した。
島田は仙台で土方と合流、箱館まで戦い、久米部正親は水戸へ行こうとしたが天狗と書生党の争いでそれどころではなく、下総へ渡り箱館戦争に参加した。
如来堂以後、斎藤一の消息は不明だが二千人の中には入らず、おそらく落城するまで城下町周辺でゲリラ戦を繰り広げていたのではないだろうか。
九月二十三日(11月7日)会津藩降伏。
鶴ヶ城に白旗が掲げられた。
戦後は、一同は塩川宿に集められ明治二年一月五日から十五日にかけて身元預かり先の高田藩へと出発する。
1,768名6陣に分かれての大移動だった。この名簿の中に如来堂以降足跡が途絶えていた斎藤の名が現れる。
斎藤一事 一ノ瀬伝八『会津北越高田謹慎名簿』
斎藤は部外者であったが会津藩士達と命運を共にし、その後も会津人として一生を終えた。斗南藩での生活後は東京で生活をし、東京で亡くなったが本人の希望で会津に埋葬された。
斎藤一の墓は七日町通りの阿弥陀寺にある。阿弥陀寺は戊辰戦争の際に東軍の死者を埋葬した地である。共に戦った藩士たちと眠りにつきたかったのだろう。
斎藤一ゆかりの地
勢至堂峠
旧白川街道の延長上にあるが、現在は立ち入り禁止。
付近には勢至堂集落があり現在も民家が並んでいる。ここを徒歩で通ったと考えると感慨深い。
勢至堂峠所在地:福島県須賀川市 (294号の途中。旧白川街道)
千手院
千手院 |
福良本陣から1km、徒歩13分程度西に進んだ坂道の上に千手院がある。ここは会津・新選組軍の野戦病院となった場所で、福良に来る前にけがをした島田魁は「此戦ニテ我輩手負ヒ福良村病院ニ行ク」と書き残している。(島田魁日記)
斎藤屋所在地:福島県会津若松市上町1-8
十六橋
十六橋 |
猪苗代湖の北西にある十六橋。
現在みられる橋は1880年(明治13年)に安積疏水事業の一環として猪苗代湖ダム化のため、門を兼ねた16径間の石造アーチ橋として建設されたもので幕末のものではない。
現在の十六橋水門は大正3年改築の大型のストニーゲートで、現存する最古のものといわれている。
平成20年度、経済産業省の「近代化産業遺産郡 続33」に認定。平成28年度に日本遺産に認定。
十六橋所在地:福島県会津若松市湊町 大字赤井戸ノ口
宗像神社
陣が峯
会津から新潟へと抜ける富士山の中に位置する陣が峯峠。
山の途中には集落があり集落からさらに上った場所にある。
林の中に一部木の生えていない個所や土塁と思われる地形が残る。
母成峠の土塁と地形が似ている為、同類と思われる。頂上付近には説明版が置いてあるためわかりやすい。
陣が峯土塁跡 |
陣が峯の説明版 |
舘原代官所跡
久昌寺 |
小田付代官所跡(御蔵稲荷神社の境内)
小田付代官所跡 |
稲荷神社の境内に代官所に関する石碑と説明板があるため、代官所跡地ということはわかるが、残念ながら戊辰戦争に関する記載はない。
小田付代官所跡所在地: 福島県喜多方市長面3026-1 ←喜多方北町郵便局の住所。神社は郵便局の裏にある
会津若松城(鶴ヶ城)
慶応四年閏四月五日(1868年5月26日 )土方・斉藤ら新選組は松平容保から金子を与えらる。おそらく若松城で容保と面会したのではないだろうか。
その後八月に籠城戦に突入。
一カ月の籠城戦の末落城。会津城攻防戦、会津城攻めなどと云われている。
地図でめぐる斎藤一の戦績
【白河関所から如来堂まで】
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