新選組・斎藤一の会津での戦績をたどる|福島会津若松~猪苗代~喜多方

斎藤一会津での戦歴

土方歳三ばかりに目が行きがちだが、土方歳三が会津を去った後も新選組は会津で戦い続けた。
その筆頭が新選組三番隊組長・斎藤一こと山口次郎だった。
斎藤一率いる会津新選組の戦跡を文章と関連史跡から紹介する。
会津若松・新選組巡りのお共になれば幸いである。

斎藤一の足跡:白河関口→白坂関門→白河小峰城跡→勢至堂峠→福良本陣・千手院→母成峠→猪苗代城→喜多方市塩川→陣が峯→喜多方市内→神指如来堂

斎藤一率いる会津新選組の戦歴

斎藤一会津入り

慶応四年三月十三日(1868年4月5日) 甲陽鎮撫隊でけがを負った斎藤一はほかの手負いの隊士達と江戸から船で会津へ向かった。

「斎藤一は手負い、病人の世話いたし会津表へ参る」(浪士文久報国記事)

慶応四年四月一日(1868年4月23日)流山で新選組局長・近藤勇が捕らえられた。

残った隊士達は各々会津を目指した。
京都からの隊士は40人ほどに減っていたが道中新規募集をかけて130人まで増えていた。

慶応四年四月二十九日(1868年5月21日 ) 流山で新選組本体とは別行動をとっていた土方歳三が会津入り。清水屋に投宿した。

会津戦争開戦

閏四月五日(1868年5月26日 ) 土方・斉藤ら新撰組は松平容保から金子を与えらる。

閏四月二十一日(1868年 6月111日 ) 藩境の白河口に出動する。

宇都宮で負傷した土方歳三に代わって隊長を務めたのは三番隊・組長 斎藤一(山口次郎)。
残っていた京都以来の副長助勤は斎藤のみになっていた。
副長は安富才助、軍目に島田魁、久米部正親を据えた。



閏四月二十二日(1868年6月12日) 白坂関門へ布陣する


四月二十五日(1868年6月15日) 白坂関門付近で新政府軍と激突する。

東軍(会津軍)は西郷頼母を大将に、白河関門の裏にある稲荷山に陣を敷いた。

西軍(新政府軍)側の記録によると、二十五日の白河・白坂関門の攻防は3時間にも及んだという。

この日の戦いでは敵を退けることに成功したものの激戦の中で菊池央(きくちおう)と横山鍋二郎が戦死。

五月一日(1868年6月20日) に行われた再戦では会津藩軍は大敗を期して白河口から撤退。白河小峰城は新政府軍の手に落ちた。

新撰組では伊藤鉄五郎が戦死して後方の勢至堂峠まで退却した。

 その後会津軍および新選組は何度か白河小峰城の奪還を試みるが成功せず六月初めに猪苗代湖南の福良に転陣する。

島田魁は福良本陣からすぐの千手院で療養している。

福良には松平容保の養子で新藩主の喜徳が出張しており新選組と謁見して激励した。

そして同じくけがの為療養中だった土方歳三も、福良で新選組と合流をした。

母成峠の戦い

慶応四年八月十九日(1868年10月4日) 新選組は大鳥圭介の伝習隊、田中源真率いる会津藩兵と共に県境の母成峠の守備に就く。

怪我で離脱していた土方歳三も戦線復帰を果たすが、新選組として復帰したのではなく、旧幕府軍・参謀として復帰している為、新選組組長は引き続き斎藤一だったと考えられる。

白河小峰城を落とした新政府軍は会津の隣の藩、二本松藩をも落とし会津に攻め入ってくる。

母成峠の布陣は萩岡に第一台場、中軍山に第二台場、峠の頂上に第三台場をおき、新選組はと伝習隊は中軍山に布陣した。

東軍の兵力は合計800人だったという。

会津藩は二本松街道からの攻撃を想定していたが、新政府軍は濃霧にまぎれ混成軍の背後から攻撃を仕掛けてきた。

その数、数千。会津軍は壊滅。新選組は木下巌、千田兵衛、鈴木錬三郎、小堀誠一郎、漢一朗、加藤定吉ら6人が戦死した。

※新政府軍の数は諸説あり。3,000とも70,00ともいわれている。

戦死者は新政府軍、会津軍合わせて104名。

新政府軍から敗走した新撰組は猪苗代城(亀が城)まで後退した。

土方歳三との別れ

猪苗代では土方歳三、斎藤一と会津藩の軍事方との間で軍議が行われた。

土方は松平容保に会うために滝沢本陣へ向かった。

斎藤一は鶴ヶ城へ登城し戦況を伝える。城内に控えていた兵士たちは、十六橋と滝沢峠へと出陣する。

戻った斎藤一と新選組は翌八月二十二日(1868年10月7日) 東山の天寧寺へと出陣した。

結果的に猪苗代城(亀が城)は土方歳三と会津新選組の別れの地となった。

天寧寺に出陣するにあたり斎藤ら新選組は甲賀町通りと会津楽市通りが交差する旅籠が立ち並ぶ一角にあった「斎藤屋」に宿泊した。

滝沢本陣に入った土方歳三は容保と容保の弟・桑名藩藩主・松平定敬と謁見。容保は鶴ヶ城籠城戦に向け鶴ヶ城へ戻る。

八月二十三日(1868年10月8日) 土方は同盟の庄内藩に援軍を依頼するため容保の実の弟の桑名藩藩主・松平定敬と共に会津を離れる。

しかし援軍要請は失敗。すでに新政府軍によって囲まれてしまっていた会津へ戻ることはできず、土方は箱館戦争に身を投じることとなる。

亀が城(猪苗代城)を落とした新政府軍は会津城下へと入る橋「十六橋」を渡る。

会津藩は新政府軍の行軍を防ぐために十六橋を破壊しようとしたが頑丈すぎて壊すことができなかったという。

陣が峯峠の戦い

慶応四年/明治1年九月一日(1868年10月16日) 塩川にいた新選組は塩川を出発、山都町木曾の宗像神社に陣をしき、九月二日(10月17日)には陣ヶ峯峠で抗戦。
陣が峯には本格的な陣を置き、斉藤一率いる新選組をはじめ、町野主水率いる朱雀四番士中隊、大鳥圭介率いる伝習隊、さらに増援として長岡藩兵が、迫りくる西軍(芸州、松代、新発田、長州)と激しい戦いを繰り広げた。
久昌寺近くにあった舘原代官所」にも宿陣している。
新選組は喜多方の小田付代官所に滞在。旧幕臣大鳥圭介も合流。

大鳥圭介は会津では戦えないと判断し榎本武揚らの脱幕府兵士たちとの合流を謀ろうとしたが、斎藤の考えは違っており、会津を去ろうとしてい大鳥圭介に対して

「ひとたび会津(へ)来たりたれば、今、落城せんとするを見て志を捨て去る、誠義にあらず」(出典:谷口四郎兵衛日記)

「会津に来た今、落城しようとしているのを見て会津を捨てるのは正義ではない。私は新選組の隊名と共にここで死ぬつもりだ」と語ったと伝えられる。

松平容保から「新選組」の名を拝命した組織だったからこそ松平容保、会津と共に散るべきだと考えたのだろう。

如来堂の戦い

九月四日(10月17日)新選組は小田付代官所から如来堂へ向けて出発。

会津藩家老の萱野権兵衛が布陣していた神指高久で戦闘が勃発し、如来堂の警備が薄くなるための応援だった。

100余名いた新選組は13名まで減っていた。

喜多方市にある小田付代官所から如来堂まで約21kmほどあり、新選組は四日に出発して同日如来堂に布陣している。

当時の武士たちの健脚ぶりがうかがえるが如来堂のすぐ西側には荒神山から会津盆地に流れ込む阿賀川が流れている。

もしかしたら新選組は喜多方から川を下って城下町付近まで戻ってきたのかもしれない。

徒歩にしろ舟での移動にしろ、長距離を移動してきたばかりで疲れていたはずの新選組を新政府軍が急襲する。

九月四日高久村にて戦争相始まり、当隊より応援として一小隊繰り出す。しかるに、ほどなく如来堂の本営へ敵兵不意に押し寄せすぐさま接戦相始まり、何分味方二十余人の小勢故、ほかに防御の術なくことごとく死す『島田魁日記』

九月五日早朝如来堂の戦いで斉藤一ら13名の新選組隊士は敵の攻撃を受けて壊滅状態となる。

小畑三郎、荒井浜を店、高田文次郎店、清水町店、高橋優らが戦死した。

如来堂の新選組は全滅と伝えられ、斎藤一もこの時戦死したと思われていたが、生き残った。

同じく如来堂の生き残りでこの後、箱館まで行った久米部正親によると「船で逃げた」とあるため、喜多方から船で来たのではないかと一層考えてしまう。

13名ほどいた隊士達の内7名は脱出できた。

これにより北方は残らず敵のものとなる『島田魁日記』

 島田魁によると敵に包囲されたため新選食い及び旧幕府軍約二千人は話し合いにより仙台へ行くことを決定した。

島田は仙台で土方と合流、箱館まで戦い、久米部正親は水戸へ行こうとしたが天狗と書生党の争いでそれどころではなく、下総へ渡り箱館戦争に参加した。

如来堂以後、斎藤一の消息は不明だが二千人の中には入らず、おそらく落城するまで城下町周辺でゲリラ戦を繰り広げていたのではないだろうか。

九月二十三日(11月7日)会津藩降伏。

鶴ヶ城に白旗が掲げられた。

戦後は、一同は塩川宿に集められ明治二年一月五日から十五日にかけて身元預かり先の高田藩へと出発する。

1,768名6陣に分かれての大移動だった。この名簿の中に如来堂以降足跡が途絶えていた斎藤の名が現れる。

斎藤一事 一ノ瀬伝八『会津北越高田謹慎名簿』

斎藤は部外者であったが会津藩士達と命運を共にし、その後も会津人として一生を終えた。斗南藩での生活後は東京で生活をし、東京で亡くなったが本人の希望で会津に埋葬された。

斎藤一の墓は七日町通りの阿弥陀寺にある。阿弥陀寺は戊辰戦争の際に東軍の死者を埋葬した地である。共に戦った藩士たちと眠りにつきたかったのだろう。

斎藤一ゆかりの地

勢至堂峠

旧白川街道の延長上にあるが、現在は立ち入り禁止。

付近には勢至堂集落があり現在も民家が並んでいる。ここを徒歩で通ったと考えると感慨深い。

勢至堂峠所在地:福島県須賀川市 (294号の途中。旧白川街道)


千手院 

千手院|会津若松新選組
千手院
福良本陣から1km、徒歩13分程度西に進んだ坂道の上に千手院がある。ここは会津・新選組軍の野戦病院となった場所で、福良に来る前にけがをした島田魁は「此戦ニテ我輩手負ヒ福良村病院ニ行ク」と書き残している。(島田魁日記)

千手院所在地:福島県郡山市湖南町福良寺前6164

斎藤屋跡 

斎藤屋跡地|斎藤一、新選組宿泊
斎藤屋跡地
現在の七日通り、旧甲賀町通りと会津楽市通りがぶつかる通りには幕末期、旅館が並んでいた。
現在「斎藤屋」の跡形もないがおそらくこのあたりと思われる。
甲賀町通りと言えば、会津降伏の調印式が行われた場所でもある。
「若松記草稿」によると宿帳に「新選組組長 山口次郎」と記帳されている。土方歳三は戦線復帰をしていたが下総市川の軍議で旧幕府軍参謀に就任していた為、新選組の組長は引き続き斎藤一が勤めていたと思われる。 

斎藤屋所在地:福島県会津若松市上町1-8

十六橋

十六橋|会津若松戊辰戦争
十六橋

猪苗代湖の北西にある十六橋。

現在みられる橋は1880年(明治13年)に安積疏水事業の一環として猪苗代湖ダム化のため、門を兼ねた16径間の石造アーチ橋として建設されたもので幕末のものではない。

現在の十六橋水門は大正3年改築の大型のストニーゲートで、現存する最古のものといわれている。

平成20年度、経済産業省の「近代化産業遺産郡 続33」に認定。平成28年度に日本遺産に認定。

十六橋所在地:福島県会津若松市湊町 大字赤井戸ノ口

宗像神社 

宗像神社|斎藤一、会津新選組宿営地
宗像神社
宗像神社所在地:福島県喜多方市 山都町字三ツ山3727

陣が峯

会津から新潟へと抜ける富士山の中に位置する陣が峯峠。

山の途中には集落があり集落からさらに上った場所にある。

林の中に一部木の生えていない個所や土塁と思われる地形が残る。

母成峠の土塁と地形が似ている為、同類と思われる。頂上付近には説明版が置いてあるためわかりやすい。

陣が峯土塁跡|斎藤一
陣が峯土塁跡
陣が峯|斎藤一、新選組
陣が峯の説明版
陣が峯所在地:福島県耶麻郡西会津町新郷大字冨士陳ヶ峯

舘原代官所跡

斎藤一陣屋跡|久昌寺
久昌寺

龍澤山 久昌寺のすぐそばにある「舘原代官所跡」に斎藤率いる新選組は宿陣していたという。「跡」といっても何も残っておらず、石橋のみが当時の遺構だとか。久昌寺には福島県指定文化財の十一面観世音菩薩がある。願いを1000個かなえてくれるとのこと。斎藤一もここで戦勝祈願をした可能性はある。十一面観世音菩薩は通常は非公開。

新選組の宿営地
所在地:福島県喜多方市山都町舘ノ原4660

小田付代官所跡御蔵稲荷神社の境内)

小田付代官所跡|宗像神社|斎藤一、会津新選組宿営地
小田付代官所跡

稲荷神社の境内に代官所に関する石碑と説明板があるため、代官所跡地ということはわかるが、残念ながら戊辰戦争に関する記載はない。

小田付代官所跡所在地: 福島県喜多方市長面3026-1 ←喜多方北町郵便局の住所。神社は郵便局の裏にある

会津若松城(鶴ヶ城)


慶応四年閏四月五日(1868年5月26日 )土方・斉藤ら新選組は松平容保から金子を与えらる。おそらく若松城で容保と面会したのではないだろうか。

その後八月に籠城戦に突入。

一カ月の籠城戦の末落城。会津城攻防戦、会津城攻めなどと云われている。


地図でめぐる斎藤一の戦績

【白河関所から如来堂まで】

参考文献

『島田魁日記』
『新選組銘々伝三巻』(新人物往来社)
『新選組・斎藤一のすべて』(新人物往来社)
『新選組日誌 上・下』(新人物往来社)

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