慶応四年四月十一日、江戸城が官軍に引き渡される。
土方歳三水海道から水路を使い下妻へ
鴻池から土方歳三・大鳥圭介らは陸軍を率い茨城県水海道へと移動する。同日 旧幕府軍は市川を通り千葉の鴻池で集結する。
水海道の船着き場から船に乗り鬼怒川から下妻へと移動する。
「土方公と秋月公は第一大隊、回天隊、新官隊を引いて水街(海)道より走土(宗道)村に至った。
軍監の井上清之進、峯松之介、倉田巴(本名は立 霞三郎尚文) 私の四人は東照神君の白旗を翻して 勢揃いし、これより常(上)州下妻井上辰若丸の書を送ると、すぐに若丸殿がこちらの陣門にて、同志となった。(島田魁日記)」
水海道河岸跡
江戸時代の水海道は鬼怒川水運の重要な拠点として栄えた。
河岸(船の発着場)や宿場も整備され、「水海道河岸 江戸へ川通三十三里 運賃米百石に付弐石九斗」とある。
中でも五木田家は会津藩御用達で会津藩の廻米を扱うなど廻漕業を営んでいた。
その縁もあってかはわからないが当時としては水海道河岸から船で北へ向かうのは、選択肢としては当たり前の事であった。
現在の水海道河岸跡には船着き場の面影はなく、豊水橋という立派な橋が架かっている。
記念の石柱が水位計測所に隠れるようにひっそりと建っている。
また明治時代の建築にはあるが、近くに前述した五木田家のレンガ造りの蔵が残されている。
水海道河岸跡の碑 |
ここから下妻へと向かった |
河岸跡と豊水橋 |
同じ川を土方歳三も見ていたと思うと感慨深い。
【所在地】
〒303-0026 茨城県常総市水海道本町
訪問時は、住所は相当大まかなので地図を参考にしてほしい
参考文献
『島田魁日記』
土方歳三~江戸から会津への道のり~
近藤が流山で捕まり江戸へ向かった土方が会津へたどり着くまでの道程まとめはこちら>>
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