水海道から川を上り下妻へ到着した土方一行は、秋月が下妻の陣屋を攻めている間、下館城を攻める。
土方歳三下館城を攻める
下館城跡 |
「土方公は二百五十人あまりを引いて同じく下館城に向か 同十七日明け方、城主の石川若狭守の城下にいき、すぐに兵隊をことごとく配置し、大手門の大砲を備え裏門へも同様に備えをもうけ、この とき土方公は大手通りに、軍監井上清之 私の三人が応援のため入城し、家老と 話した。
すぐさまと一名が汚し本営にきた。
石川若狭守の家中は一同徳川家の同志 であることを言上した。
それから兵糧弾薬を調えて 宇都宮へ向かう。(島田魁日記)」
藩主の石川総管は幕府の若年寄・陸軍奉行を務めたこともあったが、この件で下館の地を追われた。
下館城
下館城跡地に建つ看板 |
下館城の歴史
天慶三年(940年)、平将門は現在の茨城県の中心から南部を拠点にしていた。
朝廷は平将門を討つ役に藤原秀郷(俵藤太)を指名した。
その時藤原が築いた「上館・中館・下館」の三館が下館としての始まりとされている。
中館(伊佐城)はここから19km北方にあり、 南北朝騒乱 の際、伊達行朝(当地出身仙台伊達家の祖) が南朝のため籠城奮戦した史実で有名である。
上館(久下田城)は同じく65km北方にあり、 戦国時代の 勇将水谷蟠龍斎政村の居城として知られている。
下館城は室町時代の中期、文明十年(1478年) 水谷勝氏が始めて築城したものである。
水谷氏は以後、勝回、勝之、勝吉、治持と続いて、次第に勢力を拡張し、次の六代・政村の頃は5万石を領するに至ったが、政村は下館を第・勝俊に譲って自分は前記久下田城に移った。
次の勝隆の代になって備中(岡山県)に移封となり水戸家・頼房の長男・頼重 (水戸光圀の兄)が新たに5万石の城主として下館を賜ったが、三年後には讃岐高松12万石を賜栄、下館を去った。
以後、増山正弥、黒田直邦とたびたび 城主が変ったが、享保十七年(1733)石川総茂が2万石の城主として 着任してからは、代々石川氏の領分として9第137年間この地を支配し、明治になって廃城となった。
下館城跡地
現在の下館城は本丸跡に八幡神社と出丸跡に公園が残るのみだ。
下館城西城(出丸) 跡 といっても公園になってしまっているので面影はない。
戦国時代のはじめ結城の前として、文明十年(1478) 下館を与えられた水谷勝氏が築城に着手、同十三年三代・勝之のとき完成。
以来水谷八代を経て、各城主の居城となった。
城は下館台地の中央を占め、東産勤行川と西の沼を天然の要害とし、本丸、二の丸三の丸、西城出丸)から成り、幾重もの空壕と外側が水で囲まれていた。
西城(出丸)は本丸及び隔手の防備に築かれ四囲を深い空をめぐらし独立した出丸であった。
近世藩政期には局出丸ともいわれ、女官の殿舎がおかれたといわれている。
明治四年(1871)の廃藩置県後は、下館公園として桜花期には憩の場として賑わった昭和三十五年、下館上水道事業により空壕が埋められ配水場となり、現在は公園となっている。
僅かに西崖に面影をとどめている。
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