明治二年五月十五日、箱館弁天台場は降伏をする。
同月十八日、五稜郭が降伏をし戊辰戦争・箱館戦争は終結する。
弁天台場は新選組が主に防衛した場所で、最期を迎えた場所でもある。
同月十八日、五稜郭が降伏をし戊辰戦争・箱館戦争は終結する。
弁天台場は新選組が主に防衛した場所で、最期を迎えた場所でもある。
弁天台場と新選組
箱館戦争当時の弁天台場 |
当時の箱館は出島のように六角形の台場があった。
ここが弁天台場であり箱館湾防衛の要であった。
明治二年四月六日 新政府軍、蝦夷来襲の情報が入ったため。旧幕府軍は迎撃の準備に入る。
明治二年四月七日 新選組・弁天台場を本陣として箱館山周辺の守備に就く
新選組は函館市街地から山を挟んだ真裏の海岸線沿いを警備していたと思われる。
屯所は称名寺、実行寺と思われるので降伏まで新選組はこのあたりを主戦場とすることとなる。
明治二年五月十一日 新政府軍の箱館総攻撃が始まる。
寒川で交戦したと記録にある。
海岸線沿いで交戦していた新選組含む旧幕府軍はじりじりと追い詰められ、弁天台場、一本木関門などへ後退する。
これにより弁天台場が孤立状態に陥る。
新撰組隊士の内、この日戦死したのは土方歳三、乙部剛之進、栗原仙之助、津田丑五郎、粕屋十郎、長島五郎作、蟻通勘吾。
このうち乙部剛之進、栗原仙之助、津田丑五郎の3名が弁天台場で戦死していると記録に残っている。
土方歳三は一本木関門戦死。
蟻通勘吾は箱館山で戦死。
粕屋十郎は場所は不明だが箱館山か弁天台場で戦死したと思われる。
五月十三日
新政府軍は海側と陸側の両方から弁天台場を攻撃。
新政府軍の薩摩藩・片山米衛門が使者となり薩摩藩・永山友右衛門の名が書かれた書状を以って降伏をすすめに来る。
箱館病院からも入阪根松之助が弁天台場を訪れ降伏をすすめる。
永井玄藩、相馬主計、関広右衛門が使者とあっている。
会談後、永井と相馬は五稜郭へ赴き、榎本武揚と会っている。
五月十四日 弁天台場降伏を決める
五月十五日 相馬主計新選組の隊長となる。同日弁天台場降伏する
五月十七日 五稜郭、降伏を決める
五月十八日 五稜郭降伏する
降伏した新選組隊士は弁天台場で謹慎することとなる。
中島登はこの弁天台場で「戦友姿絵」を書き残した。
こうして文久三年に浪士組から始まった新選組は6年間の歴史を終えることとなった。
現在の弁天台場と新選組最後の地
現在の弁天台場は埋立地となっており函館ドック(株)という造船会社の私有地となっていて入ることはできない。
その代わり近くの入舟児童公園という小規模な公園に「新撰組最後の碑」と永井玄蕃についての説明柱が立っている。
箱館戦争当時の地図を見ると、弁天台場はかなり大きな台場だったため。弁天台場跡の柱から新選組最後の碑までが弁天台場だったのだろう。
石碑の裏側には新選組についての説明が彫られている。
「箱館戦争とき、旧幕府軍の一隊としてここにあった弁天台場を守っていた新選組百余名は明治二年(一一八九)新政府軍の猛攻撃で五月十五日降伏した。ここが最後の地である」
1本は新選組の語り部「島田魁」と会津藩士の「川村録四郎」
もう一本は石碑の近くで永井玄蕃(尚志)は江戸幕府時代は箱館奉行を務めた。
箱館戦争に突入してからは弁天台場の総指揮を務めたためここに柱が立っている。
実は三島由紀夫の高祖父でもある。
アクセス
弁天台場跡所在地:〒040-0051 北海道函館市弁天町20
新選組最後の碑所在地:〒040-0057 北海道函館市入舟町6
市電「函館ドック」駅徒歩3分
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