五稜郭・箱館奉行所~戊辰戦争最後の決戦地~|北海道函館市

箱館戦争の舞台となった五稜郭|北海道函館
箱館戦争の舞台となった五稜郭

箱館五稜郭は旧幕府軍vs新選府軍の最期の戦いの場となった史跡である。

慶応四年十月二十六日 旧幕府軍は五稜郭へ入場する。

以降、明治二年五月十八日(1869年6月27日)に開城するまで、旧幕府軍側の本陣となる。

このことから箱館戦争は別名・五稜郭の戦いとも呼ばれる。


五稜郭と新選組

新選組が池田屋事件により京都で名を挙げた同じころ、箱館五稜郭は完成した。
五稜郭は、江戸幕府が蝦夷地を管理し、かつ外国から国土を防衛することを目的として7年かけて作られ城である。
武田斐三郎が設計建築した、日本でも珍しい星型要塞(稜堡式城郭)である。
五稜郭の出城として四稜郭も五稜郭から北に作られた。
箱館戦争時には旧幕府軍の本陣が置かれ、榎本武揚、大鳥圭介、土方歳三などが滞在した。
五稜郭の土塁には砲台が並べられたが、五月十一日の箱館総攻撃のとき、この砲台からの砲撃は和箱館湾内の新政府軍の船へは届かなかったとある。
一方、新政府軍の戦艦には70ポンド施条砲という射程距離約4km以上の強力な砲台が積まれていた為、五稜郭内の奉行所庁舎の太鼓櫓に命中し、数人の死傷者が出たことが記録されている。

五月十一日、土方歳三は弁天台場に孤立した新選組をはじめとした旧幕府軍を助けるために五稜郭から出陣。
同日落命。

土方歳三が眠っている?

明治32年9月10日、上野東照宮で開かれた「伊庭八郎を偲ぶ会」でその出席者の一人が「八郎君の墓は箱館五稜郭、土方歳三氏の墓の傍らにあり。」と語った(『旧幕府』3巻8号)。

大正10年9月刊行の片上楽天著『五稜郭史』は一本松の土饅頭を合葬地とし、伊庭八郎もその中に埋葬されたとしているが根拠は不明。

明治から大正にかけて五稜郭は何度か発掘が行われている。
その際大量の遺骨が発掘されているが当時はDNA鑑定という技術はなかったため誰の遺骨化は不明てある。

明治14年の三寺移転

箱館戦争の犠牲者は、称名寺に三名、実行寺に九十四名、浄玄寺に百七名、願乗寺に五十四名と、それぞれ皆、埋葬されていたが、度重なる大火に見舞われ、区画整理が行われることとなり、称名寺、実行寺、乗玄寺の三寺は、移転することとなった。
宮路助三郎氏が自費で、この三寺にある墓碑を他に移すことになった。
その作業のため、埋葬されている遺骸を掘ったところ、遺体が纏っていたフランネル、ブランケットの襦袢など、毛織りのものはすべて、元の形を保っていた。

明治二年当港ニテ戦死セシ旧幕臣、中島三郎助父子、伊庭八郎、甲賀源吾、土方歳三、古屋佐久左衛門、ノ諸氏ヲ始メ戦死者ノ遺骸ハ、称名寺三名、実行寺九十四名、浄玄寺百七名、願乗寺ニ五十四名ト、夫々皆埋葬ナリシガ、今度称名寺、実行寺、浄玄寺ノ三寺ハ悉ク他ヘ移転セルニ付、宮治助三郎氏ガ自費ヲ以テ右三ヶ寺ニアル墓碑ヲ追々他ヘ移サルルヨシニテ其遺骸掘上グルニ身体を纏ヒシフランケット又ハフランネルノ襦袢ナド総ヘテ毛繊モノハ屹トシテ元ノ儘存在シアリトゾ。
(明治十四、八、二四、函館新聞五五三号)
称名寺の墓帳には宮古湾で戦死した野村利三郎らの名はあるものの土方歳三の名はない。
敗戦のごたごたのせいか、もしくは意図的に身元を隠されたため各犠牲者の名は書き留められなかったのだろう。

明治11年五稜郭土塁の修繕工事

東京京橋の堀江善兵衛が、五稜郭土塁の破損個所修繕の請負を命じらた。
その時、土中より箱館戦争で戦死した人の遺骸が夥しく発見された。
堀江は、この遺骸が無縁になるのを悼み、若干の私費でその遺骸を東川町願乗寺境内に移葬し、石碑を建てておいた。
明治16年に堀江はこの石碑を移転、修理し供養会を行った。
願乗寺は現在の本願寺函館別院の事である。

大正15年土方歳三の遺骨発見される?

五稜郭内で4体の遺骨が発見された。
4名とも洋服姿であったがその中の一人は来ていた服地がボロボロながらも残っており、剣を吊ったバンドには菊花御紋章が付いていた為、将校クラスと思われている。さらに頭部には数十個の銃弾が貫通した跡があった。
『箱館毎日新聞』
この遺体の身元は不明である。

現在の五稜郭

現在は土塁が修復されていたり箱館奉行所が復元されたりときわめて大事に扱われている。
箱館戦争後の五稜郭
明治二(1869)年、箱館戦争の終了後、五稜郭は明治政府兵部省の管理下に置かれる。
同年には開拓使が設置され、新政府による北海道の統治が始まり同時期箱館は函館へと名称が変わり、蝦夷は北海道と改められた。
箱館奉行所は明治四(1871)年に、札幌に新築する開拓使本庁舎の材料とするために、解体されることとなる。
しかし材木は札幌へ送られることはなく、ほとんどが民間に払い下げられた。
解体後は、練兵場として利用されたりしたが採土などはされなかったため、土塁や石垣・堀割などは、築造当時の姿をとどめることができている。
その後大正3(1913)年、公園として一般開放されるようになった。
大正11(1922)年、歴史的価値や保存状態の良さから五稜郭の土塁や石垣が国の史跡に指定された。
昭和4(1929)年には五稜郭外(堀外周の長斜坂など)が追加で国指定史跡となり、昭和27(1952)年には国の特別史跡に指定された。
復元された箱館奉行所
五稜郭・箱館奉行所~戊辰戦争最後の戦地~|北海道函館
復元された箱館奉行所

箱館奉行所は、日本の北辺防備の拠点として設置された。
始めは箱館山の麓に置かれていたが、内陸の地に移転が計画され、その外堀となる五稜郭と共に元治元年(1864年)に完成した。
箱館戦争後の明治四年(1871年)に解体されたものの平成二十二年(2010年)復元された。
復元は可能な限り建築当時の材料・工法を使用し、庁舎の1/3の規模を復元。
五稜郭の中央に建っている。
五稜郭の松
現在、復元された箱館奉行所を囲むように生えているアカマツは箱館戦争当時から存在していた。
松の下には土方歳三、伊庭八郎が眠っているとされているがどの松かは不明。

五稜郭の桜
五稜郭・箱館奉行所~戊辰戦争最後の戦地~|北海道函館
桜の名所でもある五稜郭

五稜郭は桜の名所となっており、その数約1,600本。
ほとんどがソメイヨシノだという。
土方歳三、相馬主計ら新選組隊士もこの見事な光景をみたのだろうかと思いをはせてしまいそうになるが、実はこの桜は大正12年に植樹が始まった為、箱館戦争当時は存在していないかった。
植樹の際に戦争の犠牲者と思われる白骨が出土しているが身元は不明。

当時も桜があったならばその見事さに新政府軍も砲撃をやめたに違いない。
開花の季節には多くの人が集まり人々の眼を楽しませている。
例年、桜の見ごろはゴールデンウィークの前後。
五稜郭・箱館奉行所~戊辰戦争最後の決戦地~|北海道函館市
箱館奉行所の売店でスタンプを押せる


五稜郭タワー

五稜郭タワーは五稜郭に隣接する103mの展望タワーである。
五稜郭のきれいな星形を一望することができる。

1Fのアトリウムスペースには土方歳三コーナーが設けられている。
総裁は榎本武揚なのだが陸軍奉行並の方が大きく取り上げられていることにその人気の高さがうかがえる。
歳三の像の隣にある竹は、日野に現存している土方歳三・生家にある「歳三手植えの竹」を株分けし、ここで育てているそうだ。
このアトリウムは5月の箱館新選組祭の時にはミスター歳三のコンテスト会場になっており、各地からたくさんのファンが集まる。
1Fに設けられた土方歳三コーナー
桜が似合う













1Fには総裁を務めた榎本武揚と五稜郭の設計者・武田斐三郎のブロンズ像もあるが場所もエレベータ裏と気が付きにくく、扱いに差があった・・。

展望室には土方歳三の胸像と箱館戦争のミニチュアがある。
土方歳三の座像と2ショットをとっているファンが多くいた。
展望室にある土方歳三の座像

五稜郭タワーの外には大砲の模型と戊辰戦争戦死者の供養塔もたっている。

大砲の模型

戊辰戦争戦死者供養塔


施設情報・アクセス

【五稜郭】
所在地:〒040-0001 北海道函館市五稜郭町44
アクセス:市電「五稜郭公園前」駅下車、徒歩15分

【箱館奉行所】
営業時間
  4月〜10月  9:00〜18:00(17:45 受付終了)
  11月〜3月  9:00〜17:00(16:45 受付終了)
料金:大人500円、学生、子供など250円 団体割引あり

【五稜郭タワー】
所在地:〒040-0001 北海道函館市五稜郭町43-9
営業時間:9:00~18:00
展望室への入室料金:大人900円、中高生680円、子供450円料金、団体割引あり
駐車場(有料)あり

参考文献

 


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