神保相徳の屋敷跡 |
新選組副長助勤・原田左之助は慶応四年五月十七日(1868日7月6日)に神保山城守相徳屋敷で死亡したとされている。
原田左之助の上野戦争参戦
江戸で新選組から離脱した永倉新八、原田左之助は永倉の盟友・芳賀義堂を隊長として靖兵隊を結成する。
しかし永倉新八曰く、京都に残してきた妻子への思いを断ち切ることができず、上野戦争の前日、十四日に千葉県の山崎宿で永倉らと別れ京へ戻った。
しかしどういうわけか彰義隊に加わり東京上野の戦いに参加している。
原田が彰義隊に参加したのは戦争勃発前夜だったため名簿に原田の名はない。
慶応四年五月十五日、上野戦争勃発。
戦争は半日ほどで新政府軍の圧勝で終わる。
神保山城守相徳屋敷へ運び込まれ二日後の十七日に亡くなったという。
東京本所猿江町神保伯耆守邸において銃瘡にて死『同志連盟記』
※本所にあるのは神保山城守の屋敷のため誤りと思われる
同じく上野戦争に参加していた新選組の岸島芳太郎の証言により原田は上野戦争で亡くなったと証言している。
享年二十九
戒名は正誉円入居士(正誉円入信士)
どこに埋葬されたかは定かではない。
子母沢寛の「新撰組始末記」によると日露戦争後に「原田左之助」と名乗る老人が弟である大原半次郎や甥を訪ねて故郷にやってきたという話から、上野戦争で戦死してはおらず、大陸に渡り馬賊になったという伝説も残る。
原田左之助終焉の地
神保山城守の屋敷があったのは現在の江東区森下3丁目付近。
上野戦争の中心地となった上野寛永寺から神保守の屋敷までは約6km離れており、徒歩で1時間程度離れている。
負傷した原田が運ばれたのはこの道だろうかなどと考えながら歩くと感慨深い。
現在の屋敷跡地は案内板などはなく、コインパーキング、マンション、ビジネスホテルなどが立っている。
現在の神保守邸 |
現在の猿江町神保山城守邸跡 |
現在の猿江町神保山城守邸跡 |
源義経、土方歳三、原田左之助、歴史に名を遺す英雄は大陸に渡りがち。
アクセス
所在地:東京都江東区森下3丁目3.17.18周辺
都営大江戸線「森下駅」徒歩5分
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