一本木関門~土方歳三最期の地~|北海道函館市

土方歳三最期の地・一本木関門
一本木関門

箱館総攻撃が始まった明治二年五月十一日(1869年6月20日)、土方歳三は一本木関門で命を落とす。

五月十一日の土方歳三

五月十一日の未明に箱館総攻撃が始まる。
新撰組隊士・大野右仲は前日から相馬主計と妓楼で飲んでいたが、明けて未明に砲撃が始まったと残している。
人の証言によって、5時や6時等攻撃開始の時間に差があるが朝の5~6時ごろの攻撃開始だったのは間違いなさそうだ。

明け六つ(6時)  新政府軍の箱館総攻撃が始まる(中島登覚書より)
明け七ツ半(5時) 新政府軍の艦隊5隻と小船数隻が箱館山側に着岸。山側から新政府軍が陸へ進軍を開始する。また数隻が寒川海岸側から攻撃を仕掛けてきているので新選組は寒川海岸に壁を築いて堤を防衛する。五人は海岸の壁を防衛し、六人は観音山へ詰め壁を守る。しかし敵の攻撃に耐え兼ねて、弁天台場へ引きこもる(立川主税戦争日記より)

旧幕府軍は新政府軍の攻撃に耐え兼ね、弁天台場、一本木、千代岡の陣屋へことごとく引き上げる。
これにより新選組が居る弁天台場は孤立することとなる。
土方歳三五月三十一日の行動
土方歳三・五月三十一日の行動
午前十時~正午ごろ、
土方歳三は500人余りの兵士を率いて自ら出陣し、弁天台場の奪取を試みた。
このとき千代ヶ岡陣屋を通っているので中島父子にもあっているはずだ。
一本木関門まで来た土方歳三は新政府軍と激突する。
箱館戦史によるとこの出撃隊の中には渋沢成一郎率いる士官隊も含まれていた。
土方は「吾この柵にありて退くものを斬る」といい奮戦していたがついに銃弾に倒れる。
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土方歳三馬二跨り、彰義隊、額兵隊、見国隊、杜陵隊、 伝習士官隊合シテ五百余人ヲ率テ炮台ヲ援ト欲シ、一本木街柵ニ至り戦フ。 已ニ破り、異国橋近ク殆ト数歩ニシ テ官軍海岸ト沙山トヨリ狙撃ス。数人斃ル、然ルニ撓ム 色無シ已ニ敵弾、腰間ヲ貫キ遂二戦没。 我軍進テ攻 ムル不能、退テ千代ヶ岡ニ至ル。軍監役大島寅雄、土方歳三没ルヲ見テ馬ニ鞭チ打、五稜郭ニ至ル。皆是ヲ見テ曰ク、君来ルハ何故ソ。寅雄謂、事甚急ナリ、諸君ニ語 ルニ暇ナシ、両総裁ニ逢テ宮館ノ敗ヲ語ラン『島田魁日記』

十一日、土方公台場ヲ助ケンガ為~中略~箱館ニ向カイ一本木関門ヨリ打込進テ異国経橋辺ニ至リ、馬上ニ指揮シ遂ニ銃丸ニ当リ落命被致。『中島登覚書』
佐藤家文書によると、土方歳三が討ち死にしたのは朝四ツ(午前10時)と書かれている。

五月十一日朝四ツ
一本木鶴岡町 土方討死
附添
沢 忠助
小芝長之助 安富才助
使者 別当熊蔵
一本杉江来り 安富ハ馬ヲ牽キ五稜郭江行土方引渡す
土方歳三の死は安富才助の書簡によって日野に伝えられた。
手紙の中で安富は句を詠んでいる
「(土方)隊長討死せられけれは ”早き瀬に 力足らぬや 下り鮎”」

遺体は五稜郭に運ばれ埋葬されたというが場所はわかっていない。

現在の一本木関門

一本木関門~土方歳三最期の地~|北海道函館市
土方歳三サイトの地の石碑
一本木関門は現在の八幡通り沿いにある。
函館駅側から一本木関門に向かうと案内板が大きく出ているのですぐにわかる。
函館市総合福祉センターの横が若松緑地公園になっておりその一角に石碑が建っている。
写真も飾られており、現在も花や線香が絶えることなく備えられ、土方歳三の人気の高さをうかがい知ることができる。

一本木関門~土方歳三最期の地~|北海道函館市
石碑の裏側
石碑の裏側には文字が掘られている
「昭和三十三年之二月十四日
若松小学校同窓会
父母と先生の会有志 建立」
一本木関門~土方歳三最期の地~|北海道函館市
土方歳三と箱館戦争の説明柱

一本木関門~土方歳三最期の地~|北海道函館市
一本木関門間岡町側・土方歳三はこのあたりで戦っていたと思われる
新人物往来社・新選組日誌によると、土方歳三は真岡町側で戦って戦死したのではないかと推察されている。

施設情報・アクセス

駐車場やトイレは箱館総合福祉センターを借りる事が出来る。
若松緑地公園は24時間出入り自由
アクセス:JR函館駅から徒歩9分
     五稜郭からは市電「千歳町駅」下車徒歩10分

参考文献

   


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