碧血碑~箱館戦争ゆかりの地~|北海道函館

碧血碑~箱館戦争ゆかりの地~|北海道函館
ファンはその名を聞いただけで涙する「碧血碑」

るろうに剣心~北海道編~で斎藤一、剣心、永倉新八が久しぶりの再会を果たし、戦死した仲間たちを偲んで酒を飲んでいたのが、ここ碧血碑である。

漫画ファンも史実ファンも、討幕派と佐幕派がこの場所で酒を飲みながら幕末を振り返るシーンはぐっとくるものがあったのではなかろうか。

碧血碑とは?

碧血碑の読み方は(へきけつひ、へっけつひ)という。

函館山の麓に明治8年(1875年)5月に建立された戊辰戦争、特に箱館戦争における旧幕府軍の戦没者(約800名)を供養するために建てられた。
この800名の中には土方歳三も含まれる。
碧血碑の名前の由来は中国の故事、「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」が元となっている。

題字は大鳥圭介の書とも言われているが、詳細は不明。

碑の台座の裏側には文字が彫られており

明治辰己実有此事
立石山上以表厥志
明治八年五月

(意訳)

明治二年にあることが起きた。

石を立ててそのことを表す。

明治八年五月

碧血碑の裏側
碧血碑の台座の裏側

戊辰戦争終結から6年たっても、「あること」がどんなこと不だったのか具体的に書くことはできなかった世情をうかがうことができる。

戊辰戦争時に幕府側に味方したいわゆる「賊軍」に恩赦が出され復権したのは、箱館戦争の20年も後、明治22年(1889年)の事だった

碧血碑建立の経緯 

戊辰戦争最後の地となった箱館。

戦争終了後後、新政府軍は賊軍となった旧幕府軍の戦死者の埋葬を許さなかった。

死体は市中に放置されたままだった。

それに反抗したのが侠客の柳川熊吉で、熊吉は実行寺住職の日隆らの協力を得て、処罰されるのを覚悟で、市中に放置されている旧幕府軍の遺体を回収し実行寺・称名寺・浄玄寺に仮埋葬した。

明治4年(1871年)、熊吉は函館山の麓に土地を購入し、仮埋葬していた遺体を改葬した。明治7年(1874年)8月18日に、明治政府が正式に賊軍の汚名を負った者の祭祀を許可をした。

それに伴い榎本武揚、大鳥圭介らが柳川熊吉と協力し、明治8年5月、碧血碑を建立した。

なぜ柳川熊吉は処罰覚悟で戦没者の埋葬を行ったのか

熊吉の生まれは江戸浅草。

元は料理人だったが、侠客の新門辰五郎の子分となり、1856年(安政3年)箱館に渡る。

箱館では請負(人材派遣)業を営み、五稜郭築造工事の際には労働者を派遣した。

侠客として名を馳せ、消防組を組織して組頭となる。

箱館戦争の際には、消防組として火元の警備に当たり、新政府軍と旧幕府軍の双方を行き来して意思疎通に努めたという。

このため榎本武揚らとも交流があった。

幕府からの仕事の五稜郭築城で財を成した熊吉。

転がっていた死体の中には、戦争の際に交流した顔見知りの兵士らもいたかもしれない。

いずれにせよ、捕縛、打ち首覚悟で行動できる、情に厚い人物であった。

同じ敷地内に熊吉をたたえる碑が立っている。

柳川熊吉翁の寿碑
柳川熊吉翁之寿碑

アクセス

所在地:〒040-0046  北海道函館市谷地頭町1 

行き方:JR函館駅から路面電車で谷地頭駅下車 徒歩で15分

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