井上源三郎墓所~宝泉寺~|東京都日野市

井上源三郎墓所~宝泉寺~
井上源三郎の墓がある宝泉寺

映画やドラマで近藤勇や土方歳三が突出した傑物として語られるのに対し井上源三郎はいつも穏やかな好々爺、凡人として描かれているような印象がある。

しかしそれはあくまでも主役を引き立たせるための演出であり井上源三郎の本当の姿ではないと筆者は考えている。

故郷から遠く離れた血なまぐさい京都へとおもむき、芹沢粛清や禁門の変などの動乱を駆け抜け、百姓や商人といった武士ではない者たちを隊長としてまとめた。

凡人にできるかと問われたら、無理である。

京都に行く時点で凡人の筆者には無理である。

井上源三郎の生涯

井上源三郎は現在の東京都日野市日野本町、昔の武蔵国日野宿北原に、八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として生まれた。
兄である松五郎は千人同心だった。

弘化四年(1847年)頃、周りの子らがそうであったようにごく自然に天然理心流の近藤周助に入門した。

佐藤彦五郎が現在の日野宿に建てた天然理心流の出稽古用道場で土方歳三らと共に稽古に励む。
近藤勇の兄弟子にあたり、井上、近藤、土方、沖田ら試衛館の面々はこの頃に親交を深めたと思われる。

また、源三郎は近藤勇の兄弟子でもあり、彼らとはこの頃親交を深めたとされる。万延元年(1860年)、免許皆伝。しかし、免許皆伝まで10年ほどかかった努力家タイプで、誤解も受けたのか「文武ともに劣等」と評されたこともある。
勉学の師は日野宿金子橋にあった日野義貴。
日野の寺子屋顕彰碑が欣浄寺にある。

文久二年(1862年)2月、浪士組の募集に近藤・土方らと参加。
初期メンバーとして活躍し、文久三年(1863年)に芹沢鴨一派が粛清されると副長助勤に就任した。
池田屋事件の時には土方隊に所属し、近藤が池田屋にて戦闘中の知らせを受けると池田屋へ突入した、
慶応元年(1865年)六月の組織再編成で六番隊組長に任じらる。
慶応四年一月、鳥羽・伏見の戦いが勃発。
慶応四年一月五日、淀千両松で官軍と激突するが、その最中、敵の銃弾を腹部に受けて戦死した。
享年四十。

その場にいた甥の井上泰助が源三郎の首を持ち帰ろうと首を落とすが、戦場で持ち歩くには重すぎたため、近くの寺に埋葬を頼んだ。
日野義貴の寺子屋があったのが日野の欣浄寺という寺だったのだが、偶然淀にあった寺も「欣浄寺」という名であった。
そのため泰助がこれも何かの縁とその寺に首と刀を預けたという逸話が伝えられている。
長年どこの寺なのか不明だったが近年特定され、子孫が寺の土を持ち帰った。

井上源三郎の墓

井上源三郎の墓
井上源三郎の墓

宝泉寺には井上家の墓所がある。

その一角に井上源三郎の墓はある。

誠の登旗が建っているので遠目からでもどこへ行けばよいのかすぐわかる。

墓石には井上家の家紋と戒名の「誠願元忠越居士」が刻まれている。

墓石の裏側には次のように刻まれている。

俗名 井上源三郎一武

新撰組六番隊長

慶応四年一月四日鳥羽伏見の

戦のおり淀堤千両松にて戦死

平成九年十一月吉祥日

井上信衛 再建之

井上源三郎墓所~宝泉寺~
井上源三郎墓石の裏

宝泉寺の墓誌には、源三郎と共に兄・松五郎(戒名:清松軒仁□智勇居士)、源三郎を看取った甥の泰助の名もある。(戒名:泰岳宗保居士)

井上源三郎顕彰碑

本道を左に行くと駐車場がある。

その奥にのぼり旗と井上源三郎之碑がある。

ここが墓かと思ってしまうが、墓はその奥にあるので要注意。

宝泉寺の御朱印

本堂右側のインターホンを押すと役僧が出てきて、御朱印を頼むと書付のみいただける。

宝泉寺の御朱印
宝泉寺の御朱印

宝泉寺基本情報

井上源三郎墓所~宝泉寺~
宝泉寺本堂

正式名称「如意山宝泉寺」といい臨済宗建長寺派の禅寺である。

開祖は鎌倉建長寺の曇芳同応大和尚、創立は元徳年間(1330年頃)で、当初は姥久保(現新町、中央高速が通るあたり)にありましたが、火災にあい、その後、現在の地に再建されたといわれています。日野市観光協会HPより引用>>

開山以来現在まで21世代に及ぶ。

その間小田原北条氏から寺領を請け、徳川氏からは高八石と寺中山林竹木諸役免除の朱印状を授けられたという名門である。

本堂には本尊釈迦如来、脇侍文殊・普賢両菩薩の三尊が安置される。

本尊のほかに「持ち上げ観音」の名で知られている馬頭観音像があり、持ち上げた時に感じる重さによって吉凶を占う。

大きさは約36cm。

願い事をしながら持ち上げ、軽く感じたなら願いはすぐにかなうが、重く感じたならば困難な道になるという。

所在地:日野市日野本町3-6-9

☎:042-581-1926

アクセス方法:JR中央線日野駅下車徒歩2分

 

コメント