井上源三郎資料館 |
源三郎の子孫は居ないが兄・松五郎の子孫は今も日野に住んでいる。
松五郎から五代目の子孫・井上雅雄氏は自宅を井上源三郎資料館とし、一般公開を行っている。
展示資料
展示資料は井上松五郎が「長持に隠して置いた」新選組や千人同心に関する
二百数十点の歴史的資料。
やはり当時の新選組は賊軍として差別され、関係するものはすべて処分の対象になっていたのだろうか。
松五郎が新政府軍の手から守った者は、現代のわれわれに当時の様子を伝える貴重な資料となっている。
欣浄寺
井上源三郎資料館の対面に欣浄寺という寺がある。
正式名称を嶺北山碩伝院欣浄寺という。
幕末期、欣浄寺には千人同心である日野義貴が営む寺子屋があった。
源三郎はここで学問を学んだ。
文久三年(1863)8月に日野が無くなると亡くなった顕彰碑が建てられており、当時新選組六番隊長だった源三郎にも知らされたようで、碑の台座の裏には、「井上源三良」と刻まれている。
この寺は源三郎一井上家の人達にとってなじみの或る寺だった。
鳥羽伏見の戦いで、源三郎が亡くなったときに、甥の泰助が首と刀だけでも持ち帰ろうとしたが、重くて持ち帰れず、心ならずも捨てようとしたところ、よく知っている寺と同じ名前の寺を見つけた。
そこで泰助はこれも何かの縁と思い寺門前に穴を掘り源三郎の首をそこへ埋めたという。
その寺の名が「欣浄寺」であった。
泰助はそのことを娘のケイに伝え、京に行くことがあったらお参りして来いと云ってあったそうだ。
しかしそれをケイさんから聞いた、研究者の谷春雄氏はケイさんが少しボケており日野にある欣浄寺と間違っていると思い込み下記の通りつづっている。
「しかしケイさんも老齢のためこの寺の名を思い出せず、まことに残念なことだった。」
(谷春雄)
しかし泰助もケイさんもボケてなどいなかった。
同じ寺の名だったのだ。
井上源三郎資料館によると、廃寺になってしまっていた為淀の千両松に「欣浄寺」という寺などなかったということになってしまっていたが、平成二十年五子孫をはじめとする調査隊が寺のあった場所を探し出し、土を持って帰ってきたという。
資料館情報
アクセス:JR中央線「日野駅」下車徒歩5分
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