東山梨郡春日居村・地蔵院 |
新選組隊士、大砲方下役・立川主税(たちかわちから)は土方歳三付として最期まで土方に従い、土方の死に際に立ち会った安富才助が、その死と戦績を書いた手紙を日野・土方家に届けた人物である。
立川主税の墓所は山梨県の笛吹市にある。
現在の福岡県で生まれたといわれている立川主税は、なぜ山梨でその生涯を閉じたのだろうか。
立川主税の人生
立川は筑前国宗像郡鐘崎、現在の福岡県出身とされている。長崎で水夫の仕事をしたのち、江戸へ来たと思われる。
しかし新選組に入隊したのは慶応4年(1868年)の甲陽鎮部隊の時で、立川主税34歳ごろのことと思われる。
長崎から山梨に来た経緯はわかっていないが当時としてはオールドルーキーだった。
入隊後は大砲方下役を務めたのち、箱館では土方歳三付となった。
明治二年五月一日、土方歳三は函館で戦死する。
土方の故郷・日野に住む義兄の佐藤彦五郎が書き残した覚書によると、土方が戦死した時に付き添っていたのは、安富才介 (輔)、 沢忠助、別当・熊蔵であった。
安富才助は日野あてに土方の戦死を知らせる手紙を書き、それを立川主税に日野・土方家に届けるよう託す。
しかし立川は函館を脱出することはできなかった。
五稜郭の南東、「湯の川」までたどり着いたがそこで新政府軍に投降する。
明治二年七月に秋田藩御預かりとなり、九月に青森、十一月に東京と転々と移され、最終的には出身藩の福岡藩に預けられ、禁錮処分となる。
安富から預かった手紙を持って日野・土方家へ行く事が出来たのは明治五年ごろとされている。
書簡日付:明治二年五月十六日
宛先:土方隼人様 貴下
差出人:箱館五稜郭内 安富才助
この書簡は土方歳三資料館に保管されている。
実に三年近くにわたって任務を全うした立川であった。
立川は安富の手紙に加え、自信が記した「立川主税戦争日記」、「梅雨月」という歌集も日野の土方家へ持参した。
「梅雨月」というのは箱館に居た面々が土方歳三の戦死を受けて、追討の為に詠んだ歌集だったという。
明治維新後、立川は仏門に入る。
同じく新選組隊士だった斎藤秀全(一諾斎)の紹介で山梨県都留郡畑倉村の曹洞宗・全福寺の住職・鷹林臨峯に弟子入りし、独竜巨海と名乗る。
明治八年、都留郡桂村にある西方寺の住職となり、その後明治十八年、東山梨郡春日居村・地蔵院の住職となる。
明治三十六年一月十一日、永眠するまで土方歳三始め戦死した同志たちの供養をしながらその一生を過ごした。
立川主税の墓所
立川主税の墓所は住職を務めた地蔵院にある。
歴代住職として丁重葬られている。
墓石には「富山二十三世獨龍巨海和尚」の文字が彫られている。
アクセス
所在地:〒406-0003 山梨県笛吹市春日居町桑戸513
電車:中央本線「春日居町駅」 から徒歩8分
車:中央自動車道一宮御坂IC で中央自動車道を出、国道137号と県道314号を進む
駐車場有
※立川主税の墓はお寺の墓所の一番奥、本堂向かって左側にある。
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