芹沢鴨暗殺|新選組事件簿|京都府八木邸

芹沢鴨暗殺|新選組事件簿|京都府八木邸
芹沢鴨暗殺

文久三年九月、新選組の屯所に賊が押し入り、新選組のトップである局長・芹沢鴨が暗殺されるという事件がおきる。

京都の警備を任されていた新選組にとっては顔に泥を塗られた形だ。

近藤勇は会津の松平容保に「不覚面目次第」と伝えている。

しかし実は賊の仕業ではなく近藤一派に芹沢派一掃のための暗殺であった。

事件概要

発生日時:文久三年九月十八日(深夜)(1863年10月30日)

事件現場:京都新選組屯所、八木邸

犠牲者:芹沢鴨、お梅、平間重助

加害者:土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助

首謀者:松平容保、近藤勇

目撃者:八木源之丞の妻、八木為三郎


事件に至るまでの経緯と背景

ことの八端は大和屋焼き討ち事件ともいわれている。
文久三年七月二十四、天忠組の勤王の志士藤本鉄石(註一)、松本圭堂、吉村寅太郎などが、天の川義挙のため軍資金の募集を企てた。
奸商*誅伐*と称し、仏光寺高倉の油商八幡卯兵衛の首を斬り、三条橋詰の制札場にさらした。

奸商*・・悪徳商人 誅伐*・・罪あるものを攻め討つこと

この時の捨札には「大和屋庄兵衛及ビ外両三名ノ巨商モ同罪タレバ梟スペシ」と書いてあった。
大和屋の庄兵衛も同罪なので首をとるべきだ、という意味である。
大和屋庄兵衛は驚いて、伝手をたどって勤王の志士と交流があるとされていた五条橋東で小児薬の「おけや薬」というのを売っている板倉筑前介 (醍醐家の臣)に助命を頼んだ。

この時大和屋から藤本鉄石の天忠組へ少なくない金額が渡された。

この噂を聞きつけた芹沢鴨は八月十三日、5~6名の隊士を連れて葭屋町一条通にあ大和屋庄兵衛方を訪ね、隊費の借用方を強談した。
大和屋では、主人が旅へ出ているので、応じ兼ねると、きっぱり断った。
その夜、芹沢派大砲を引っ張りだし大和屋の土蔵へ射ちかけた。
火消し役が駆けつけるが隊士が刀や鉄砲を抜いて近寄らせない。
当の芹沢鴨は屋根の上に立ち笑いながら見ていたそうだ。
午後二時に土蔵を全壊させ、四時ごろになって芹沢鴨は満足したのか「愉快、愉快」と言いながら引き上げていったという。
大問題にあるところだが芹沢は現場に「 当家主人公大好物、諸民困難ヲ厭ハズ利慾ニ耽り、外国ト交易ナス、大罪人 所有物焼払フペン、是レ天命ナリ」という立札を建てた。
「大和屋は悪徳商人で庶民を困窮させ、外国と交易をする大罪人なので所有物を焼くことは、天命である」
感情的に暴れているように見えて、暴力の理由もしっかりと示し自分にお咎めが来ない根回しもしている。
芹沢鴨という男は頭脳派ではないだろうか。
この根回しのおかげか表面上は芹沢および新選組には何のお咎めもなかった。

しかしこれを聞きつけた新選組を預かっている会津、松平容保は許さなかった。
近藤を京都守護職があるある金戒光明寺(黒谷)に呼び出し、芹沢の「処分」を命じたという。
直接的な暗殺命令だったのか、どうにかしろ間接的なものだったのか、どういう命令だったのか今となってはわからないが、近藤は芹沢鴨の暗殺を決めた。
芹沢鴨暗殺の決定打となったといわれる「大和屋焼き討ち事件」現場
大和屋所在地

事件当日の様子


屯所の持ち主、八木源之丞の息子、八木為三郎いわく当日は朝から雨だった。
文久三年九月十八日(1863年10月30日)新選組は会津候からのお手当で島原の角屋で宴会を開く。
八木邸では馬詰新十郎と柳太郎親子の二人のみが留守番をしていた。
留守番といっても近藤らから金はもらっていたのだろう、遊女を呼んで八木邸で酒を飲んでいたという。
八木邸の主、源之丞は京都へ用事で出かけておりこの日は戻らなかった。
つまり八木邸はこの上なく人がいない状態であった。

芹沢鴨は泥酔し、平山五郎、平間重助らと共に籠で先に帰宅した。
芹沢一派が帰った後も宴会は続いていた。

芹沢一派が八木邸に着いたのは22:00頃だったそうだ。

平山は角屋を出てから桔梗屋の小栄をつれかえり、平間重助も輪違屋の糸里を連れて帰った。

平間重助は普段から深酒をしないそうで、この日もさほど酔っていなかったように見えた。
一方の芹沢鴨は帰宅時すでにぐでんぐでんで、平山に至っては玄関で突っ伏していたそうだ。
この酔っ払い二人を、平間重助と八木邸の男手で部屋へ運んだ。
芹沢鴨はかねてからの愛人・お梅と共に布団に入った。

~ここから八木源之丞の妻の話~
24:00頃
八木源之丞の妻は、誰かが玄関の障子を開けて入ってくる気配を感じた。
九月の暑いころに加え、隊士達が昼夜関係なく出入りするので雨戸はしめていなかった。

夫である源之丞は外出中であったため、ひょっとすると夫が帰ってきたのではないかと思ったという。

体つきから夫ではなく土方歳三の様だった。
土方と思われる男が足音を忍ばせ、芹沢鴨の寝ている部屋の唐紙を開けて中をうかがっている。
源之丞の妻は「土方さんですか?」と声をかけようとしたがただならぬ雰囲気を感じて声を出さなかった。
しばらくすると男はいなくなったという。
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土方たちの侵入経路・本玄関

それから何事もなく芹沢鴨のいびきが聞こえてきた。
源之丞・妻も布団の中でうとうとし始めていた。
すると、急に4~5人が激しい勢いで玄関から入り込んでくると芹沢鴨の寝ている唐紙をけ破り中へ入っていった。

この4~5人については、沖田総司と原田左之助のいたことは確かに見たと云います が、外の人はわからない。
どうも山南敬助もいたんじゃないかと母はいっていました。(八木為三郎)

母が吃驚して飛び起きた時には、もう、「あっ」 という大変な物凄い声がしたそうですが、私と弟とねているのが気になりますから、そんな事には頓着なく矢庭に私達の床の方へ走り込もうとしました。


芹沢鴨は寝ているところを襲われ、廊下を伝って八木家が寝ていた八畳間に逃げ込んできた。

八畳間の廊下側には八木為三郎の手習い用の机が置いてあり、芹沢鴨はこれに躓き、八木家が寝ていた布団の上に転んでしまった。

転んだところを後ろからずだずだと刺されたという。

寝ている子供たちの上に死体が寝転んでいる形となった。

源之丞・妻が叫んでも子供たちはなかなか起きないのでやっとのこと死体の下から引っ張り出したところで八木為三郎は目を覚ました。

八木為三郎は、刺客は目撃していなかったが平間重助が、下帯一本を身に着けただけで抜いた刀を下げて、「何処へ行った! 何処へ行った!」と叫びながら家の中を走り回っていたのを目にしている。

沖田総司芹沢寝所二忍ビス、言葉モカケズ芹沢ヲ切ル。
芹沢驚キナガラ心得タ リト起直リ脇差ヲ抜テ討テ掛ル、沖田ノ鼻下ニ軽傷ヲ負ハセタレトモ、土方歳三ノ二ノ太刀ヲ受ケ損ジ、切倒サレテ遂ニ命ヲス。 姦婦ウメモ即座に切殺サレタリ。
平山五郎ハ三南(山南)敬助、原田左之助ノ二士ノ為ニ殺害セラレタル無残ナル事共也。
娼婦此乱ニ逃失タリ、仍テ是ニ構ハザリシ。
(西本願寺門主の侍臣・西村兼文記述)

西村兼文によれば芹沢鴨とお梅は土方歳三と沖田総司に殺され、平山五郎は山南敬助と原田左之助によって殺された。
目を覚ました為三郎。
ここからは八木為三郎の目撃談が非常にリアルである。

大人たちが大騒ぎで前川邸に知らせに走ったり行燈やろうそくを昼の様になるまでつけたという。
八木為三郎は怖いもの見たさで、自分たちの布団の上で死んでいる芹沢鴨を見た。
芹沢鴨
 下帯もつけない真っ裸で刀も持っていなかった
 複数個所を刺されて死亡
 枕元にいつも刀を置いていたが、布団の中に半分隠されていたという
お梅
 湯文字と呼ばれる腰巻1枚の裸同然の姿であった。
 複数個所刺されており、大人たちが「首がもげそうだ、動かすな、動かすな」といっているのを聞いたので首をやられたのではないか
平山五郎
 裸
 首と胴が離れており胸に大きな傷があった。
 寝ている時に反撃する暇もなく首と胸を斬られた

大声を出していた平間重助はそのうちどこかへ行ってしまったという。
身の危険を感じて逃げたのだろう。

芹沢鴨暗殺の現場・八木邸間取り図と位置関係芹沢鴨暗殺の現場・八木邸間取り図と位置関係
事件現場

暗殺後の様子

八木為三郎ら家族は近所の永島というところへ避難しようと向かっていた。
すると近藤勇が隊士3~4人を引き連れてきたところに遭遇する。
近藤勇は八木家に「どうも見苦しい有様をお目にかけてお恥しい事です」といった。

近藤勇は源之丞の妻にあまりいろいろ質問はしなかったが「平間君はいなかったのですか」と聞いたという。
平間も殺す気だったのだろう。
近藤勇に少し遅れて、土方歳三もやってきたという。
近藤たちが角屋から来たのか前川邸から来たのかわかっていないが、源之丞の妻は前川邸から来たと考えたようだ。
のちに「恐ろしいながらにおかしくて仕方なかった。自分がたった今殺しておいて前川へ帰ったかなと思う頃にもうちゃんと着物を着かえて済ましてやってきているのだから」と語っている。

近藤勇たちと話を終えた八木一家は永島に着いた。
その間もずっと雨が降っており、足元は泥だらけだったので、足を洗っていると、弟の勇之助が「いたい、いたい」と言い出した。
調べてみると右足にかなりふかい刀傷が出来ていた。
源之丞・妻の話によれば、子供たちが寝ているところに芹沢鴨が倒れ掛かり、その上から刺客たちが刀を刺したのだからそのせいで切れてしまったのだろう。

勇之介が怪我した件を後日沖田総司が聞きつけて「勇坊まで怪我したそうだね」と本当に気の毒そうに言っていたそうだ。
沖田総司はもしかしたら自分の刃が勇之助を傷つけてしまったかもしれないと自分を責めたのかもしれない。

近藤勇は芹沢鴨と平山五郎の死体に着物を着せ、血だらけの布団に乗せたまま運び出した。
お梅の死体に関しては新選組では引き取る気はなく、かといって元居た菱屋に掛け合ってもすでに芹沢鴨先生の女房となるために暇を出したので縁は切ったと断られる。
掘れた中なので芹沢鴨と一緒に埋葬してはどうかという案もあったが当の近藤勇が「芹沢先生は新選組局長、ともすれば大名公家の貴女を妻とする身分であった、売女とは合葬できない」と却下した。
今聞けばとんでもない女性蔑視の発言だがこれが当時の概念だったのであろう。

八木家は困り果て、ついに西陣に遠縁がいることを突き止めそこに引き取ってもらった。
文久三年九月二十日、芹沢鴨、平山五郎の葬式が行われた。
両人とも傷は隠され紋付き袴に木刀を納め埋葬された。
参列者は会津家の家臣、水戸家家臣など武士も大勢いたという。
八木家から埋葬地の壬生寺までは、隊士全員紋付きで鉄砲、槍、弓をかつぎ粛々と隊列を組んで移動した。

墓地で芹沢鴨は南を枕に足を、平山は逆の北枕の状態で埋葬され、二人の間に墓石を置いた。
葬式の間も住民たちは「刺客が忍び込んだ、長州らしい」としきりに噂していた。
ちょうど八月に新選組は長州の間者として4人の隊士を処罰している。
それすらも芹沢鴨暗殺の為の伏線だったのではないかと疑いたくなる。
しかし、近藤勇は隊士達には、芹沢鴨らは急病の為死んだと説明していた。
佐藤彦五郎にあてた手紙の中でも芹沢鴨は病気の為亡くなったと書いている。

新選組トップが刺客によって殺されたとあっては市中見回りのメンツ丸つぶれになるからだろう。

かくして芹沢派は一掃され、近藤派によって新選組は映画を極めていくのである。

参考文献

   

 


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