甲州勝沼戦争に敗れた新選組は江戸を経て、会津へ向かう。
その途中の流山に駐屯していたところを新政府軍に包囲される。
近藤勇は「大久保大和」と偽って出頭をするが、近藤は江戸の板橋まで連れていかれ、二度と新選組に戻ることはなかった。
流山は、近藤と新選組の別れの地である。
流山の新選組ゆかりの地をご紹介。
丹後の渡し
丹後の渡し |
慶応四年四月一日(1868年4月23日)
新選組一行は現在の東京都足立区綾瀬から水戸街道を通って流山へ入る。
その数227人。
その際一部の隊士達が船を使って丹後の私から流山に入ったといわれている
また日にちはわからないが、十五日には名簿に名前があった大石鍬次郎、三井丑之助、市村鉄之助の兄・市村辰之助が脱走している。
おそらく綾瀬から流山への移動中に脱走したのではないだろうか。
丹後の渡し所在地
〒270-0164 千葉県流山市流山7丁目 江戸川河川敷の上に碑が立っている
近藤勇陣屋跡(長岡屋跡地)
流山で、新選組は長岡屋に本陣を置いた。
長岡屋は味噌醸造元だったり酒造ともいわれている。
227名という大所帯であったため長岡屋だけでは収まりきらず、近くの「信楽寺光明院」にも分宿している。
また近くの長流寺や流山寺にも分宿したのではないかといわれている。
近藤勇陣屋跡所在地 〒270-0164 千葉県流山市流山2丁目122−3 |
光明寺
信楽寺光明院 新選組が分宿した光明院。 丹後の渡しから歩いて5分程度。 近藤がいた長岡屋からは徒歩13分程度。 小林行っちゃと親交のあった秋元双樹の墓があり一茶が墓参りに来ていたと伝わる。 御朱印がもらえると聞いていたがこの日は残念ながら留守だった。 |
境内にある「新選組隊士分宿」の碑 光明寺所在地 〒270-0164 千葉県流山市流山6丁目651 流山寺 |
光明寺の西側にある流山寺(りゅうさんじ)。
現在の建物は1965年(昭和40年)に再建されたもので、鉄筋コンクリート造となっている。
流山七福神の大黒天を祭っている。
御朱印をいただくことができる。
流山寺の御朱印 |
流山寺所在地
〒270-0164 千葉県流山市流山7丁目579
浅間神社(新政府軍、陣を置く)
新政府軍が陣を置いた浅間神社 翌日の慶応四年四月三日(1868年4月25日)流山に不穏な動きありとの報を受けた新政府軍は流山の浅間神社にはいり錦の御旗をたて仮本陣とした。 浅間神社の裏には約6mの富士塚がある。 長岡屋とは目と鼻の先で当時は今ほど建物がなかったと考えると頂上から長岡屋の敷地は丸見えだったに違いない。 |
浅間神社にある富士塚 |
新政府側は香川敬三、有馬藤太が長岡屋を取り囲んだ
浅間神社所在地
〒270-0164 千葉県流山市流山1丁目153
矢河原の渡し
近藤勇と新選組が分かれた矢河原の渡し |
近藤勇は「大久保大和」として新政府軍に野村利三郎、村上三郎を伴って出頭した。
矢河原の渡しで船に乗り埼玉県側へと渡っり越谷まで連行される。
村上は何らかの理由で流山に戻り本体と合流、会津へと向かっている。
同日、近藤勇の出頭後、土方歳三が近藤勇を救うべく、江戸へ向かった。
慶応四年四月四日 (1868年4月26日)
近藤は連行され、土方が江戸へ行ってしまった新選組の残党は武装を解除し解散をし各々会津へ向かうのであった。
流山到着時には227名いた隊士達であったが会津へ着いたのは先に向かっていた隊士達も含め121名程度だったと思われる。
矢河原の渡し所在地
〒270-0176 千葉県流山市加6丁目1314−37
流山市博物館
図書館に併設された博物館には新選組関連の資料がある。
長岡屋にあった階段などが展示されている。
流山博物館
〒270-0176 千葉県流山市加1丁目1225-6
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