新選組は、京都に本拠をおくとはいえ、
そのため将軍・家茂が大坂城に滞在する時など、
京都壬生から大阪までは約47km。
歩いて11時間の距離である。
当時の人からしたら十分近いといえる距離ではないだろうか。
新選組が大阪出張の際に使用した屯所が萬福寺である。
ーーー以下萬福治寺山門前にある顕彰碑文より引用ーーーーーー
たとえば島田魁の手記によれば、慶応元年(1865)5月、 将軍家茂の3度目の西上にあわせて、新選組は大坂市中の取り締まりを命じられている。
その時期の大阪町奉行所の発した文書によれば、「壬生組」 が萬福寺を宿所にしています。 すでに同年3月、新選組の本拠地は、 当初の壬生・八木邸から西本願寺境内へ移っていました。だが、この「壬生組」こそ新選組のことと思われます。
実際、同年7月1日付、 幹部・井上源三郎から兄・井上五郎にあてられた書面によれば、 前月中に松五郎が萬福寺に源三郎を訪ねています。 たまたまそのとき、源三郎は京都に戻っていて会えませんでしたが、 この書簡からも大坂滞在中の新選組の旅宿のひとつが萬福寺だ
ったとわかります。萬福寺の現在の建物のうち、 庫裏や山門などは末期には存在しており、往時をしのぶことができます。
ーーーーー引用ここまでーーーーーーーーーー
訪問した時は柵があり境内に入ることはできなかった。
幕末から変わらない山門 |
萬福寺境内 |
萬福寺所在地
〒543-0076 大阪府大阪市天王寺区下寺町1丁目3-82
ぜんざいや事件とは
土佐勤王党の残党による大坂城乗っとり計画を察知した新選組による浪士襲撃事件である。
慶応元年一月八日(1865年2月3日)、土佐藩を脱藩した土佐勤王党の残党は大阪に潜伏。
大利鼎吉、池田応輔、田中光顕、大橋慎三、に加え、ぜんざい屋の主・石蔵屋政右衛門(本多内蔵助)らは、大坂市街に火を放ち、其の混乱に乗じて大坂城を乗っとるという計画を立てた。
当時、大阪新選組の責任者だった谷万太郎は友人の谷川辰吉から土佐勤王党の残党らの情報を得ると、兄の谷三十郎、正木直太郎、阿部十郎を呼んで、このぜんざい屋を襲撃した。
谷ら4人でぜんざい屋を襲撃するが土佐勤王党は石蔵屋と大利しかいなかった。
谷万太郎が石蔵屋に傷を負わせるが逃げられたので、4人掛かりで2階にいた大利を討ち取った。他の者は襲撃を知ると逃げたため、京都・新選組本隊もこれを聞いて京都から出動し大坂を探索したが、土佐勤王党の残党は大和方面などに逃亡した。
現在のぜんざい屋跡地
ビルの1階にぜんざい屋事件についての銅版が貼られている。
ぜんざい屋跡地所在地
〒542-0066 大阪府大阪市中央区瓦屋町1丁目11 松屋町筋
京屋ー大阪・新選組定宿ー
新選組が大阪出張の際、定宿としたのが萬福寺と京屋である
新選組副長助勤の永倉新八は『浪士文久報国記事』の中でたびたび京屋に宿泊したと記している。
慶応四年一月六日(1868年1月30日)戊辰戦争で撤退した時も京屋に宿陣している。
「六日焼天に敵、亦進来ス(中略)当局、八軒屋に陣す(『島田魁日記』)」
また、坂本龍馬の妻・お龍は回想録『反魂香』の中で、結婚前に妹を大坂丼池まで救出に行った際、京屋を利用したと語っている
なお明治3年には「和泉屋」に代替わりした。
現在の京屋跡地
現在は「フロマージュ天満橋店」とその隣の空き地一帯が京屋の敷地だった。
「フロマージュ天満橋店」の店頭の壁に以下の碑文が貼られている。
「この付近、大坂八軒屋 船宿 京屋忠兵衛跡 幕末期 新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司らの常宿だった」
京屋跡地所在地
〒540-0032 大阪府大阪市中央区天満橋京町3-6周辺
大阪城
鳥羽伏見戦争の勝敗を決定づけた場となった大阪城 |
近藤勇は伊東派の残党により襲撃を受けたため療養中だったが土方に開放され登城し板倉勝静と面会している
「此日、新選組近藤勇痛手ヲ悪ビ、土方俊三二介抱サレナガラ登城シ、板倉候ニ謁見ヲ請入リ(『武内孫助筆記』)」
同じ日、大阪城内で火災が起こる。
敵による火攻めと勘違いした何人かは自刃してしまったという。
怪我を負っていた新選組隊士・村上清も自刃してしまった。
「時に城外青屋口火を失す。時に城外青屋口火を失す。会々風烈しく火片城中に飛下 し将に延焼せんとす。(中略)負傷錯って以為らく敵兵来り火を縦つと為し、自刃する者あり。新選組の傷物村上清士も亦自刃す。(『会津戊辰戦史』)」
火災で大阪城にいられなくなった新選組は再び八軒の京屋へ戻ることとなる。
大阪城はこの時の火災によって消失してしまった。
嘉衛元年(1848年)に建てられた多聞櫓は火災を免れ当時の姿を見ることができる。
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