土方歳三と斎藤一の別れの地・猪苗代城|福島県会津

  

土方歳三、斎藤一別れの地 猪苗代
猪苗代城(亀ヶ城)跡地

猪苗代城(亀ヶ城)とは

起源は文治5年(1189年)の奥州合戦での戦功により、会津4郡を与えられた佐原義連の孫・大炊助経連が耶麻郡猪苗代を領して、猪苗代氏を称したと伝えられる。
築城は諸説あるが宝治元年(1247年)の宝治合戦以降が有力とされている。
その後、会津領主は蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成と続き、慶応四年(1868年)幕末のときには高橋権大夫が城代となっていた。

戊辰戦争の際、母成峠の戦いで新政府軍が会津軍を破って、会津領へ侵入すると、高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退したため、建物は全て失われてしまった。

新選組と猪苗代城

慶応四年八月十九日(1868年10月4日) 新選組は大鳥圭介の伝習隊、田中源真率いる会津藩兵と共に県境の母成峠の守備に就く。
母成峠の戦いで会津軍は壊滅状態に陥ったため新撰組は猪苗代城(亀が城)まで後退する。
八月二十日か二十一日ごろ、ここで土方歳三、斎藤一と会津藩の軍事方との間で軍議が行われた。

八月二十二日、土方は松平容保に会うために滝沢本陣へ向かい、斎藤一は鶴ヶ城へ戦況をたたえるために鶴ヶ城へと登城した。

滝沢本陣に入った土方歳三は容保と容保の弟・桑名藩藩主・松平定敬と謁見。
容保は鶴ヶ城籠城戦に向け鶴ヶ城へ戻る。

八月二十三日(1868年10月7日) 土方は同盟の庄内藩に援軍を依頼するため容保の実の弟の桑名藩藩主・松平定敬と共に会津を離れる。
援軍要請は失敗。
土方歳三はすでに新政府軍によって囲まれてしまっていた会津へ戻ることはできず、土方は箱館戦争に身を投じることとなる。

結果的に土方歳三と斎藤一率いる会津新選組は猪苗代であったのが最後となったと思われる。

史跡情報

現在城址は亀ヶ城址公園となっており、隠れた紅葉の名所で人も少なく穴場となっている。城郭は残っていないが石垣を見ることができる。

所在地:猪苗代町字古城跡7150
駐車場あり
☎: 0242-62-2048(猪苗代観光協会)
現在も残っている猪苗代城(亀ヶ城)の石垣
現在も残っている猪苗代城の石垣

参考文献



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