新選組(新撰組)とは|組織図、歴史、隊士達、何をしたのか、ゆかりの地、など

新選組(新撰組)とは|組織図、歴史、隊士達、何をしたのか、ゆかりの地、など
新選組

結成当時から現代にわたり様々な形で我々を魅了する新選組。

時代によって小説、ドラマ、ゲームなど形を変えなお新たなファンを獲得している。

そもそも新選組(新撰組)とは何だったのか。

とてもひとつの記事で語ることはできないが概要をまとめた。

新選組とは江戸時代の末期に身分関係なく集められた武装組織で主に京都の警護・治安維持にあたった。現在の警察・軍隊と役目は似ている。

この記事でわかること

・新選組とは
・新選組の歴史と関わった主な事件
・新選組のメンバー、組織図
・新選組ゆかりの地

新選組の前身「浪士組」の結成

江戸時代末期の文久三年(1863年)、江戸幕府の将軍・徳川家茂の上洛が決まった。

尊王攘夷論者の清川八郎による発案で将軍警護の為と称し、幕府は人員を募集する。

浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)、武だけでなく文に秀でたものも採用するという条件だった。

つまり身分、年齢を問わず参加ができた組織だった。

この浪士組はのちに「新選組」、「新徴組」と枝分かれしていく。

この募集に応募したのが江戸の牛込柳町に「天然理心流・試衛館」という道場を構えていた道場主・近藤勇とその門徒たち、いわゆる試衛館一派だった。


試衛館一派のほかには水戸天狗党を起源とした芹沢鴨一派が参加していた。

浪士組上洛

近藤勇、芹沢鴨らを含む浪士組、総勢234名は文久三年(1863年)二月八日、小石川伝通院に集まり、江戸を出立して中山道をとおり上洛する。
二月ニ十三日、浪士組は京都の壬生村に到着。
各隊ごとに壬生村会所や寺、郷士宅へ分宿する。
新徳寺には鵜殿鳩翁・清河八郎ら取締役などが宿泊、八木家には近藤勇、芹沢鴨らなど10名が宿泊していた。

浪士組が壬生村に到着した夜、清川八郎は隊士達を新徳寺に集め、浪士組の目的は将軍警護ではなく尊王攘夷を実行するためだ、朝廷に建白書を提出したのちすぐに江戸へ戻って攘夷を決行すると演説した。
清河の案に反発した芹沢一派と近藤一派はこの時清河と決別する。

翌日清河は、芹沢、近藤ら他清河に反発した隊士達を抜かした200名あまりの名を記した建白書を朝廷へ提出し、受理された。

この騒動を知った幕府は浪士組に即刻江戸へ戻るよう命令する。

もとより江戸で攘夷を決行するつもりだった清河はおとなしくこの命令に従った。

壬生浪士組会津藩預かりに

文久三年三月十日、京都残留組は当時京都の警護を任されていた会津藩の松平容保にあてて、せめて将軍家茂が滞京している間だけでも護衛の役目につかせてほしいという嘆願書を提出する。 

嘆願書に書かれた名前は17名。

芹沢鴨、新見錦、平間重助、平山五郎、野口健二、粕谷新五郎、阿比留栄三郎、佐伯又三郎(現地加入)

近藤勇、井上源三郎、土方歳三、山南敬助、永倉新八、原田左之助、沖田総司、藤堂平助、斎藤一(現地加入)

上記の芹沢派、近藤派17名に加えて

殿内義雄、家里次郎、根岸友山、遠藤丈庵、清水五一、神代仁之助、鈴木長蔵

が加わり24名が創設メンバーとなる。

文久三年三月十二日に会津藩お預かりが決定する。

京都残留組は最初に宿泊していた壬生村界隈に引き続きとどまり屯所とした。



粛清と戦いの日々・新選組がかかわった主な事件(京都)

幕府公認の警護組織とあってその活動は常に死と隣りあわせだった。

通常時は京都市中の治安維持業務を行っていたが、藩同士の争いにも駆り出された

新選組が出動した代表的な事件とゆかりの地

新選組内部粛清者

さらに新選組は身分問わずだれでもはいれるということで前科者や農民、町人など様々な隊士が所属した。

出自がばらばらの隊士達をまとめるのに厳しい隊の規律が必要だと考えた幹部たちは4つの法度を作成し、違反した者には切腹を命じた。

以下は隊内粛清された主な事件とゆかりの地である。


慶応3年6月15日(1867年7月16日)
新選組は屯所を西本願寺から不動堂村へと移す。
ここにはる不動堂村

https://www.shinsengumi1863.net/2021/02/blog-post_9.html

幕府瓦解と戊辰戦争

慶応三年十月十四日 (1867年11月9日)
幕府が大政奉還を行うと打倒江戸幕府の機運が高まってくる。
十二月十六日、新選組は不動堂の屯所から伏見の奉行所へ入った。
明けて翌年の慶応四年正月三日(1868年1月27日)長州・薩摩を中心とした新政府軍と徳川家・会津藩を中心とする旧幕府軍が鳥羽伏見で衝突。
戊辰戦争が始まる。
新選組は当然旧幕府軍として戦争に参加した。
https://www.shinsengumi1863.net/2024/01/tobafushimi.html

鳥羽伏見の戦いに敗戦した幕府軍は大阪まで撤退。
新選組は大阪から船で江戸へと帰還した。

江戸へ戻った徳川慶喜は寛永寺で謹慎。
新選組は当初寛永寺を護衛していた。

一方、鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は江戸を制圧すべく東海道・中山道・北陸道を進軍する。

陸軍総裁・勝海舟は新選組に江戸進軍を甲州で阻止することを命ずる。
諸説あるが、鳥羽伏見の敗走兵たちが江戸でくすぶっていては新政府軍との交渉に邪魔なため体よく江戸から追い出したという説もある。

永倉新八によれば甲州出兵は勝からの命令ではなく、近藤が慶喜に出願、受け入れられたとある。(浪士文久報国記事)

慶応四年二月三十日 新選組は「甲陽鎮部隊」として江戸を出発。

大久保剛と名を変えた近藤勇は大名籠にのり組長達は陣笠・陣羽織。
内藤隼人と名を変えた土方歳三は断髪・洋装の体であった。
病にかかっていた副長助勤の沖田総司は同行していたが戦いには参加していない。
どこで新選組と別れたの正確にはわかっていないがこのあたりの時期と思われる。

三月六日 正午ごろ甲州街道上で新政府軍と開戦。
敗戦した新選組はばらばらとなり各々で江戸へ逃げかえる

https://www.shinsengumi1863.net/2021/07/blog-post_3.html

江戸で再集結した新選組は会津での徹底抗戦を決める。
しかしこの時試衛館来の同士、永倉新八と原田左之助が隊を抜ける。

近藤勇の処刑と会津戦争

会津へ向かい徹底抗戦すると決めた新選組は現在の北千住や松戸を通って流山に宿泊していた。
慶応四年四月一日(1868年4月23日)ここに噂を聞きつけた新政府軍がやってきて近藤勇は出頭する。

土方は近藤助命嘆願のため勝海舟に会うため江戸へ戻る。
新選組本体は頭を失ったまま会津へ向かった。

慶応四年四月二十五日(1868年5月17日)
https://www.shinsengumi1863.net/2021/05/blog-post_89.html


慶応四年閏四月二十五日(1868年6月15日) 白坂関門付近で新政府軍と激突する。
いわゆる会津戦争の始まりである。
https://www.shinsengumi1863.net/2021/11/aizushinsengumi.html

会津は婦女子・子供含め徹底抗戦を貫いたが状況は劣勢。
新島八重、中村武子、白虎隊

慶応四年八月二十三日(1868年10月7日) 新選組副長ではなく旧幕府軍の幹部となっていた土方歳三は会津藩主・松平容保の弟、桑名藩藩主・松平定敬と共に、同盟の庄内藩に援軍を依頼するため滝沢本陣から出発した。

援軍要請は失敗。
会津藩は鶴ヶ城の門を閉ざし籠城戦へ突入。
新政府軍に囲まれた鶴ヶ城に戻ることもできず土方歳三は北海道へ向かうことを決意する

また大鳥圭介など旧幕府軍の幹部たちも劣勢の続く会津を離れ北海道を目指した。
そんな中、新選組副長助勤・斎藤一(山口次郎)や一部の新選組は会津に残り、慶応四年九月二十二日(11月6日)、会津で終戦を迎えた。

蝦夷共和国と新選組最後の戦い

慶応四年(1868年)八月十九日夜、旧幕府軍の海軍副総裁だった榎本武揚は戦艦・開陽丸をはじめとする軍艦4隻(開陽、回天、蟠竜、千代田形)と運送船4隻(咸臨、長鯨、神速、美賀保)の8隻の艦隊を率いて蝦夷地の箱館に向かった。
途中の仙台で会津戦争で敗走した残党などを吸収して、総勢二千数百名となり、十月二十日に現在の北海道鷲ノ木に上陸。
上陸後、箱館にある五稜郭を攻略しここを本拠地とする。


十二月十五日に蝦夷地全島平定の祝賀祭(蝦夷地領有宣言式)が催され、榎本を総裁とする仮政府の樹立を宣言した。
俗に言う「蝦夷共和国」の誕生である。

ここに加わった土方歳三は陸軍奉行並に抜擢される。

当然新政府は新たな国の樹立を許すはずはなく蝦夷共和国追討令をだし、約1,000名の兵士を青森に送る。

宮古湾開戦

旧幕府軍は、新政府軍艦隊が当時日本最強の軍艦・甲鉄(ウォールストーン)で宮古湾に入る情報を手に入れると、甲鉄を奪うため海軍奉行・荒井郁之助を指揮官として、陸軍奉行並・土方歳三以下100名の陸兵を乗せた軍艦・回天と蟠竜、高雄の3艦で宮古湾に向けて出航した。


明治二年三月二十三日、暴風雨に遭遇した3艦は統率が困難となり、集結地点である山田湾には回天と高雄が到着したが、蟠竜は現れなかった。
さらに、高雄にも故障がみられ甲鉄奪取作戦は回天1隻だけで行うこととなる。

三月二十五宮古湾海戦勃発。
甲鉄奪取は失敗し回天艦長・甲賀源吾、新選組の野村利三郎など19名が戦死。
故障していた高雄も新政府軍の春日に追撃され、座礁した。

五稜郭の戦い

宮古湾海戦に勝利した新政府軍は明治二年四月六日に青森を出発。
1,500名が乙部に上陸した。
新政府軍は江差、二股口と攻略し陸と海の両方から五稜郭へと迫った。

土方歳三不敗伝説爆誕の地・二股口

明治二年五月十一日早朝、新政府軍の箱館総攻撃が始まる。
土方歳三は弁天台場に孤立した新選組をはじめとした旧幕府軍を助けるために五稜郭から出陣。
同日一本気関門にて落命。



頭を失った新選組は相馬主計を隊長とし弁天台場にて戦いを継続したものの新政府軍によって包囲され孤立。
土方歳三が戦死した4日後の明治二年五月十五日、箱館弁天台場は降伏をする。
五月十七日 五稜郭が降伏を決め、五月十八日に箱館戦争が終結。
慶応四年/明治元年に始まった戊辰戦争は終結する。
降伏した新選組隊士達は謹慎したのち箱館の寺院等に収容された後、弘前藩ほかに預けられ、ほとんどが翌年に釈放された。
幹部だった、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助、永井尚志、松岡磐吉、新選組最後の局長・相馬主計の7名が、東京辰の口の軍務官糾問所の牢獄に投獄された。
相馬主計は明治三年(1870年)十月十日、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられて伊豆新島に流罪となるがほかの幹部たち同様明治五年(1872年)に赦免された。

https://www.shinsengumi1863.net/2021/05/blog-post_15.html


新選組を題材にした主なドラマ:

テレビ東京:壬生義士伝 新選組でいちばん強かった男:主演:渡辺謙

NHK大河ドラマ「新選組!」:出演:香取慎吾、山本耕史、藤原竜也、堺雅人、佐藤浩市、他

BS NHK「新選組血風禄」:主演:永井大

テレビ朝日「『君とゆきて咲く ~新選組青春録~』:主演:前田拳太郎、奥智哉


新選組を題材にした主な映画:

壬生義士伝 中井貴一

燃えよ剣 岡田純一


参考文献



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